秋の歴史散歩 [城・館・チャシ・グスク]
今日は、先日(11月20日)の「大山道 家康の柩が通った道」です。
タイトルと今回歩いた所とは大山道と云う以外にはあまり関係が
ないように思えたというのが今回の感想です。
家康は元和2年4月17日に駿府城で75歳の生涯を終えました。
遺言により、一旦久能山に葬り後に日光に改葬されました。この
時日光までの道中の中で、平塚・中原御殿を出発した柩は厚木
ー座間ー木曽ー小野路ー関戸ー府中・御殿の約44キロを1日で
通ったなかの木曽一里塚ー小野路一里塚が今日の歴史散歩
です。
大山道の境川(昔は高座川(たかくらがわ))神奈川県と東京都の境界
の手前100mくらいのところに龍像寺坂と云う坂があります。その
坂の終わったあたりに左に折れる道があります。そこを曲がった
ところに「龍像寺」と云う寺があります。
龍像寺山門
龍像寺本堂
墓と墓誌 は江戸時代の旗本・岡野家の墓です。岡野家の
知行は1500石 役職は小普請戸田中務支配四番とありま
すが、どんな役職がわかりません。
大山道 龍像寺坂の左に折れる所にある説明板です。
大山道境川を渡った200mくらいのところにある木曽の一里塚
説明板ですが、ほとんど字が読めません。
木曽一里塚の石碑です。
簗田寺(りょうでんじ)は簗田(やなだ)半兵衛正勝が建立と言わ
れています。この簗田氏と言えば桶狭間の戦いで、今川の情報
をいち早く信長に伝えたといわれていますが、史料がないために
さだかではありません。
簗田寺山門
簗田寺本堂
簗田寺御住職のお話
境内にある歌詞碑
簗田氏像掛け軸
境内にある石碑
簗田氏の墓
円福寺にある折り紙供養塚。全国でも珍しいそうです。
野津田の大山道
小野路の一里塚
一里塚の説明板
小野路の大山道脇にある向坂地蔵
小野路の小野神社碑
小野神社
何故大山道なのか、家康が愛した中原海道でないのか、 ?。
ほとんどが、知られていないローカルなので、参加者は50名
くらいでしたが、その中に相模原市博物館館長の井上先生も
参加して下さいました。先生お疲れさまでした。
タイトルと今回歩いた所とは大山道と云う以外にはあまり関係が
ないように思えたというのが今回の感想です。
家康は元和2年4月17日に駿府城で75歳の生涯を終えました。
遺言により、一旦久能山に葬り後に日光に改葬されました。この
時日光までの道中の中で、平塚・中原御殿を出発した柩は厚木
ー座間ー木曽ー小野路ー関戸ー府中・御殿の約44キロを1日で
通ったなかの木曽一里塚ー小野路一里塚が今日の歴史散歩
です。
大山道の境川(昔は高座川(たかくらがわ))神奈川県と東京都の境界
の手前100mくらいのところに龍像寺坂と云う坂があります。その
坂の終わったあたりに左に折れる道があります。そこを曲がった
ところに「龍像寺」と云う寺があります。
龍像寺山門
龍像寺本堂
墓と墓誌 は江戸時代の旗本・岡野家の墓です。岡野家の
知行は1500石 役職は小普請戸田中務支配四番とありま
すが、どんな役職がわかりません。
大山道 龍像寺坂の左に折れる所にある説明板です。
大山道境川を渡った200mくらいのところにある木曽の一里塚
説明板ですが、ほとんど字が読めません。
木曽一里塚の石碑です。
簗田寺(りょうでんじ)は簗田(やなだ)半兵衛正勝が建立と言わ
れています。この簗田氏と言えば桶狭間の戦いで、今川の情報
をいち早く信長に伝えたといわれていますが、史料がないために
さだかではありません。
簗田寺山門
簗田寺本堂
簗田寺御住職のお話
境内にある歌詞碑
簗田氏像掛け軸
境内にある石碑
簗田氏の墓
円福寺にある折り紙供養塚。全国でも珍しいそうです。
野津田の大山道
小野路の一里塚
一里塚の説明板
小野路の大山道脇にある向坂地蔵
小野路の小野神社碑
小野神社
何故大山道なのか、家康が愛した中原海道でないのか、 ?。
ほとんどが、知られていないローカルなので、参加者は50名
くらいでしたが、その中に相模原市博物館館長の井上先生も
参加して下さいました。先生お疲れさまでした。