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大奥のスキャンダル 1 [城・館・チャシ・グスク]

 長い間のご無沙汰でした。
 今、コロナの流行で3月の初めから、家からでていません。本当は2月の初めから出て
いませんが、3月の初めに胸のCT検査の予約をしていたので、病院にいったのが、最後
でした、これは自分が肺気腫の持病を持っているため、年に1回するように言われている
からです。
 自分がコロナの陽性になったら多分駄目でしょう。私も家内も歳(二人で173才)なので、
娘や倅、孫までが、色々気を遣ってくれます、買い物は娘か倅がしてくれるので、外の様子は
テレビでの情報しかわかりません。

 2月の初めに孫がひ孫を連れて遊びに来てくれました、今回で2回目ですが、最初のときは
まだハイハイもできなかったのに、1年ぶり、言葉も少し喋れるようになってました。
下がその時の写真です。
IMG_6809.JPGIMG_6835.JPG
IMG_6869.JPGIMG_6872.JPG

もう一人の孫にも昨夏、ひ孫が生まれましたが、まだ小さいので行けないと言って
ました。

私事の話が長くなりましたが、娘からは外出しないよう強く言われています
ので、江戸城の踏査に行くことができず、今回は大奥のスキャンダルについて
江戸城資料の中から抜粋してみました。
1.絵島生島事件 (天英院Vs月光院)
2.感応寺集団女犯事件
3.延命院事件
4.於江の方Vs春日局
5.天璋院Vs皇女和宮
6.実成院Vs滝山
7.大老堀田Vs将軍綱吉Vs正室信子
8.おてや焼死事件
このほかにもあるかもしれませんし、また、上記よりももっとスキャンダラスな
事件もあるかもしれませんが、自分の知りえた知識でのピックアップなので、
また、スキャンダラスな話には尾ひれがつきますので、史実と異なる資料もありますので。
また、8については、スキャンダルではなく悲劇かもしれません。


今回は1.の「絵島生島事件」を取り上げてみました、この事件はほとんどの方が
ご存じのことだと思います。

 この大奥ができたのは、3代将軍家光の時、春日局によって作られました。
将軍以外の男性禁止の場所でした。本丸御殿は大きく分けて表御殿、中奥御殿、
そして大奥御殿です。

表御殿
   今でいえば各省庁のような場所で、諸役人の執務や将軍の謁見の場所
中奥御殿
    ここは、将軍の住まいで、ここは小姓しかいない、男性の世界です。
大奥御殿
    ここはご存じのように、男性は将軍だけしか入れません。

以前、江戸城内での抜刀はたとえ三寸でも、切腹、お家断絶だと言われていたのに、
刃傷事件がかなりありました、それを載せましたが、男性の場合は遺恨、武士の
面子がほとんどでしたが、大奥は女性だけです、なので、男性とはちょっと違って
嫉妬がほとんどでした。

 絵島生島事件は事件としては門限に遅れた絵島を規則を破って門内に入れた
月光院なのに罪は絵島以下の女中が被害にあったことで、事件としては些細な
ことです。

 江戸時代になってからは、跡取りがいなければ、御家断絶です、下が将軍の
正室、側室、や子供の数です。
将軍の奥方.jpg
この表を見てお分かりのように、正室の子は家光だけです。後は継室・側室か
御三家、御三卿からの将軍です。
正室、継室、側室で二桁の子供がいたのは、家康、家斉、慶喜の三人ですが、
ほとんどが早世で、
正室はゼロ
継室は於江の方の家光の一人
側室でも秀忠、家綱、家継、家重、家治、家慶、家定の七人で、
後の七人は正筋ではありませんでした。
6代将軍の側室於喜世の方(月光院)(家継の生母)に仕えるお年寄りが絵島です。
下の家系図は3代将軍家光から7代将軍家継までの系図です。
Scan.jpg
この図の通り3代家光から7代家継までは家光の血筋です。ここで宗家の筋は
きれます。
 徳川幕府の不安定な時期を別にして、三代将軍からは正室は公家・宮家・皇家
から選んでいます、家定の時も篤姫は継室ですが、それでも近衛家の養女となり、
近衛敬子として輿入れしています。しかし三代目以降正室からの子供が将軍に
なっていません、また、側室からも子供ができなかった将軍もいます。

 では、ここからが本題です、この時の将軍は家宣ですが、上の系図を見て
ください、8人の子供のうち3人が早世です、長男家綱が家督を継ぎますが子供か
出来なかったので、四男の綱吉が五代将軍になります。
 綱吉には徳松が生まれましたが、早世だったので、家宣が六代将軍になります。
Scan-1.jpg
上記が家宣の正・側室の系図です。

家宣は家光の三男綱重(甲府徳川祖)の嫡男で甲府徳川の二代目でした、甲府徳川と
言っても江戸城西の丸での生活でした。
 もし、家綱、綱吉に子供がいたら、甲府宰相と言われて、側室を持つこと
なく、正室煕子と過ごしたのではないでしょうか、天英院と月光院のバトルは
なかったかもしれません。
 何故かと言うと、家宣が将軍になって本丸に移ってからも、煕子との仲は良か
ったようです。
 長男が生まれてのは、煕子40歳のときでした、側室だったら20代までで、
30代になったら声がかからなくなります。

 余談ですが、先代綱吉、先々代家光は正室との仲は悪かったようです。

 家宣の生前は正室煕子(天英院)と側室於喜世(月光院)仲が悪かったわけ
てせはありませんでした、没後も仲が悪かったわけではありませんでした。
 家宣には7人の子供がいましたが、鍋松(家継)以外はすべて早世で、於喜世
だけが家継の生母となったので、しだいにクローズアップされ、大奥での
権力が集まってきます、家宣没後は大奥の実権は先代御台所より、将軍の
生母としてのふるまい、月光院に仕える御年寄絵島もその権力をほしいまま、
 これにはほかの御年寄も苦々しく思っていたでしょうが、相手は将軍の
生母、そして側用人、間部詮房と懇意だったことも一因だったとおもいます。

 今までは事件の前の話でした、ここから核心に入っていきます。
事件が起きたのは家宣の没後2年たった正徳4(1714)年、7代将軍家継の生母、
月光院に仕える御年寄の絵島は1月12日月光院の名代として、上野・寛永寺と
芝・増上寺に、徳川家の墓参に出向きました、これ自体は、御台所、や将軍の
生母の代参として将軍の菩提樹にお参りに行くのは慣例であり、問題はありま
せん。
 問題は帰りに木挽町の芝居小屋・山村座に立ち寄り、芝居見物したことでした。
もちろん代参の途中で芝居見物など、御法度です、主演役者は生島新五郎、幕間に
この新五郎から挨拶を受けた絵島は上機嫌、芝居が終わった後、新五郎を招いて
茶屋で大宴会を催します、酔って時間を忘れてしまったのが、絵島が江戸城の
七つ口に帰ってきたときは門限の午後四時を過ぎていました。同行していた、御
年寄の宮地は「だれにたいしてモノ申しておる!」と高圧的に「門を通せ」と言い
はり、「規則は規則でございまして」と押し問答。
 騒ぎは大きくなってなり、城内に知れ渡ってしまった。
 事件は評定所で審議され、町奉行、大目付によって調べられ、その結果、幕府は
新五郎は三宅島へ遠島、山村座座元五代目山村長大夫も伊豆大島に遠島山村座は廃座、
絵島も遠島を申し渡されるが、月光院の嘆願が功が奏して信州・高遠藩・内藤清枚に
御預けとなり、生涯解けることなく、絵島は二度と江戸へもどれなかった。
 絵島の異母兄の白井勝昌は切腹ではなく斬首され、弟豊島常慶は追放となり、
取り巻きとして利権を食っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府
呉服師の後藤とその手代、そのほか材木商も遠島や追放と多数の連座者がでました、
処罰されたのは50人以上という
大事件になりました。



 余談ですが、長野県伊那市高遠町歴史博物館に絵島が幽閉されていた「絵島
囲い屋敷」が復元されています。



 家宣没後、家宣の遺言により、天英院(煕子)は本丸大奥に留まり、家継の嫡母
としての後見となりました。
 
本当に仲が悪かったのでしょうか、取り巻きが権力を持ちたいための騒ぎでは?
と言うのは、家継が病気で危篤状態となったとき、嘆き悲しんでいる月光院を
励ましたと言われていますし、家継の八十宮降嫁のときは、月光院とともに
力を入れています。

 8代将軍吉宗を迎えるのにも尽力したといわれ、吉宗に正室が不在だった
こともあり、将軍家女性筆頭として、その後も権勢を振るったと言われて
います。
 
 月光院は家継の没後は西の丸へ移り余生を過ごしたとあります。

 この事件についても、後に尾ひれをつけて面白可笑しく書かれている本など
がありますが、権力争いを絵島生島事件に乗じ大きくした事件です。

 当時は将軍家のスキャンダルを正式には残していませんので、[新月][新月]家文書とか
[新月][新月]家日記などのほうが、史実に近いことが多いのですが、これらの文書は中々
日の目をみることがないので、ここに書いたことでの正確さは追及しないで
ください。ただし、間違っていることがありましたら、お教え下さいませ。

[ダイヤ][ダイヤ][ダイヤ]
 「徳川実記」や「江戸幕府日記」では亀松が次男になっていて、綱重は三男と
なっていますが、「徳川幕府系譜」では綱重は次男になっています。
 家宣の生母は身分の低い女だったため家臣・新見正信の養女として新見左近と
名乗っていました、その生母も早くに没したので、祖母順性院にそだてられました。
 このように、資料によってちがっているものがかなりあります。


 来月からブロバイダーがかわります、これで三度目です、ジャストネットから
ソネットらかわったのが、20年くらい前、これを機会に引退すべきか迷っています、
自分がパソコンを使い始めて40年以上になります、OSがまだベーシックのときです、
その後MS-DOS2.2,3.0,3.1,3.3A,B,Cとバージョンが変わり6.0で終わりそれからが
いまのWin3.0,3.1,3.3,95,89・・XP,7.0・・10へとかわってきました。
MS-DOSのときはマイクロソフト社の日本支社がなかったので、NECが日本語の
MS-Dosを販売していました。ソフトにしても、ワードプロセッサーは一太郎
これも3.0から6.0まででWinにかわりました、集計表はロータス1-2-3後に花子
そしてデターベースは桐でした。当時オフィスはありませんでした。
 この一太郎を作っていたのが、ジャストシステムです。
 自分はこの変化(進歩)についていけなくなりました。これも原因の一つか
もしれません。

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ハマコウ

お久しぶりです。
先日、かかりつけ医に血圧の薬を受け取りに行きました。その折、医師から50代はもう年配者だからなるべく外に出ないようにと助言を受けました。
辛抱しなければと思います。
3月からご家庭にいらっしゃるとのこと、ご家族に支えられているので安心ですね。ご自愛ください。

一太郎、学校現場では長らく人気がありましたが、学校で貸与されるものにワードが入るようになり10年ちかくなります。教員もワード派がほとんどとなり、一太郎派はわたしの世代くらい、ごくわずかとなりました。松から一太郎に乗り換えた頃を懐かしく思い出します。
by ハマコウ (2020-05-03 14:14) 

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