城と写真 [城・館・チャシ・グスク]
自分が写真に興味を持ったのは、昭和25年のときでした、当時はカメラなんて
個人での所有は皆無に近かったとおもいます,当時はおもちゃのカメラで、
一コマ8mm角の12枚撮りでした。35mmの一眼レフを初めて買ったのはたしか
昭和34~5年ころ、価格はサラリーの2.5ケ月分くらいだったと思います、写真家でもないのに、
望遠、広角の交換レンズ、当時はズームはありませんでした、
それと引き伸ばし機とエスカレートしましたが、
現像液、定着液、印画紙は日本橋の卸問屋まで買いにいかなければ入手出来ません
でした。
そこに、城に興味を持ったので・・・。
フィルムでの写真は1963年~2004年までの41年間、デジタルの写真は2001年~
現在までのたった19年です。
下の標はデジタル写真の訪城記録です、赤丸印の城はデジタルとフィルムの両方あります。
この写真と城がマッチして今に至りました。
城に興味をもって61年、1959(昭和27)年胃潰瘍で4カ月入院、退院後鎌倉の伯父の所で
静養している時、従兄が退屈だろうと買ってきてくれた本「徳川家康」全23巻のうち発行
されていた、19巻(20~23は未発行)を一週間で読破しました。
この本のなかで、城の名はでてきたので、何となく行ってみたいと思っていましたが、・・・。
仕事に復帰し最初に与えられた仕事はメロンの潅水装置(これが現在拙宅の潅水装置の原点)
メロンの潅水は4時間毎です、半世紀以上前のことです、当時今みたいに電子式のタイマーは
ありません、メカ式のタイマーのクオリティーは低く、電磁弁も信頼性に?でした。
だから自分的には失敗だったと思います、給水につていも塩ビのパイプニノズルをつけ
散水しますが、水源から遠い所は散水力が弱く、もう少し時間がほしかった。
下がその時の写真です。
メロンの現場は磐田と言う所でしたが、そこには旅館がなく浜松駅近くのビジネス旅館に
泊り、そこからの通いでした。
当時はビルなど高い建物がなかったためか、旅館の屋上(3階建て)から浜松城が朝日を受けて
きれいだったので、城まで行きました、下がその時の写真です。
白黒なので、その時の自分の気持ちは伝わりにくいのですが、下が城紀行(1)です。
当時は写真を撮った場所は三の丸跡で、ここには市営体育館で、付近にはアパートがあると
かいてあります。
この浜松城を見て、山岡荘八の「徳川家康」を読んだ後だったので、城に取りつかれました。
下が現在の浜松城です、近くに高層建物が多く天守からおりた平地では天守を見ることが
できません。
この旅館の屋上からみた城が頭に残り「お城」に対する思いが強くなりました。
この写真が最近の写真です、近くは官庁街ですが、天守だけあれば「城」と思ってせめて
本丸だけでも城を残して欲しかったとおもいます。
会社の休みはほとんど城へいきました。下が訪城記録の1ページです。
翌年7/30~8/8の間それまで関東だけでしたが、東北・北海道を回りました。
下記は当時の日本城郭協会の機関誌(現在はありません)にその時のことを投稿しました。
当時は城についての知識に乏しく、城の情報収集に本と研究会と国会図書館などで、
情報収集をしました。国会図書館は当時日曜・祭日は休みだったので、休暇はほとんど
国会図書館に使ってました、研究会の機関誌は情報源の一つだったので、当時7団体に
入ってましたし、書籍も1000冊をこえましたが、現在はほとんどが友人や図書館へ寄贈
しまして30冊くらいを残すのみです。下が蔵書一覧です。
これは一部です、左の通し番号が1037ですが、現在は1096です。
城の団体は日本城郭協会、関西城郭研究会、東海古城研究会、西日本古城研究会、日本城郭
史学会など7団体に入っていました。
当時はWebどころかパソコンもない時代、情報源が限られていました。
1965(昭和40)年頃 人物往来社から「日本城郭全集」出版にあたり、原稿、資料、古図、
古写真、など城に関する資料の依頼がありました。
この人物往来社「日本城郭全集」を発刊後倒産し、その後新人物往来社という新会社を
設立しこんどは「日本城郭体系」を出版しましたが、今度は2013年にこの会社も角川に吸収
されて、社名はなくなりました。
下が最初の「日本城郭全集 全16巻」です。
左は外ケースがあったときのもので、今は外ケースがなしい右のものです。
下はその後新人物往来社から発刊された「日本城郭体系 全20巻」です。
今回は「日本城郭全集」に掲載された1巻と2巻のものだけにします。
この2冊だけで25城45枚の写真が掲載されました。城についても3ツの城について書きましたが、
採用されたのは、1城だけでした。
下がその時城と掲載されている写真のページです。
この中で城11~城25までは10日間で周った城の写真なので、最初ベタ焼していいもの
だけを焼き増ししました、これはその時540枚の写真だったからです。
この写真は弘前城の写真の一部です、裏には忘れないように被写体の名称も書きました。
それでは「日本城郭全集 第一巻」の掲載されてあるものです。
本の中表紙です。
右側が、掲載されてある本のページで、左側が写真です。
この八戸城については、城址碑がなければ城だと認識出来るものがないと書いてます。
一関城、ここで数ページあるが、小さな小山にある公園で、山頂の平な所が
本丸だと思われる、城に関する碑など何もない。
鍋倉城、夕方5時に盛岡を発してこの遠野に着いたのは午後9時だった、遅かったので、
心配になり、車掌さんに遠野に旅館ありますかねー、と聞いたら遠野は市ですよと言われた
ここは、城よりも遠野物語のほうが、有名か、城は駅から徒歩5分の小山、山城だ
標碑があるので、場所はわかるが遺構はない。と書いてある。
福岡城(九戸城)、ここも数ページにかかれている。
盛岡城です、ここは石垣が見事だ、近世の城郭だ、石川啄木の詩に出てくる
不来方(こずかた)のお城の・・・ で頭に残っていた城だ゛。
秋田城、佐竹氏が久保田城を造る前に作った城で、今は護国寺となっている、鳥居の横に
城址碑がある。と書いてある。
大館城、この城も柱城公園となっている、本丸跡の一角に公民館、二の丸跡、三の丸跡
にはモダンな市役所等の庁舎が建ち、城址碑一つない。と書いてある。
久保田城、ここも千秋公園となって整備はされている、佐竹氏の居城20万5千石の城
かなり広いので、滞在時間が2時間近く。と書いてあります。
5年くらい前テレビ朝日がこの古井戸の写真を使わせてほしいとの話があり、
OKしまして、しかし、ふざけた内容でした、下のテロップがある写真は、その時
放映された古井戸です。
桧山城、旅館からかなりあると言うんで、タクシーを呼び城入口まで、行き、ここで
待っててほしいといったら、その運転手さんついて行っていいか、と言われいいと言って
登ったが、山道が酷い、旅館の下駄できたので、きつかった。とあります。
本荘城、跡碑はあるのだが、ほとんどが夏草にかくれて探すのに時間がかかった。
とあります。
横手城、この町は小説「山と川のある町」のモデルだときいたが、確かに城は山の山頂
山の東から南に川が流れている。と書いてある。
これで一巻は終わりです。これから下は第二巻です。
二巻の内表紙です。
巻頭の写真の一部に載ってました。松嶺城の櫓門です。
亀ヶ崎城(酒田城)、今は高校のグランドとなって遺構を探すのに骨が折れた、この城の
城主坂田氏よりも、本間氏のほうが有名で、「本間様にはおよびもないが、せめてなりたや
殿様に」とうたわれたくらい、本間美術館には上杉氏、酒田市の遺品はあるが、城についての
資料はない。と書いてあります。
寒河江城、この城は数ページに書かれてますが、この寒河江については、文も絵図も
写真も全て自分が書いたり撮ったりしたものです、何故資料の少ない中世の城をと
思われますが、他の城についても書きましたが、ボツになりました。当時市の教育委員会、
郷土史家の先生、高校の校長をはじめ多くの先生方にお世話になりました。
新庄城、最上公園となっているが場所を示す標碑がないので、この本の城図でも
解るように城図にすら曲輪の名前がない。
鶴岡城、主要な碑はあるが、藩校致道館が博物館となっているが、資料はないので、
よくわからない。と書いてあります。
松嶺城、巻頭の写真の内側から撮った写真です、砂越駅からバスで40分、今は
松嶺高校となっています、下の写真は校舎です。
米沢城、この城は今回の東北・北海道のスタートの地、昨夜寝台が取れず、3等から
2等に変えた2等は座席を倒せるので、寝ることができた、上杉の居城だった城としては、
ちょっとさびしい。とかいてある、当時は今のグリーン車を2等といっていた。
石巻城、現在本丸跡は鹿島神社となってわずかに土塁が残っているのみ、城址碑かせなければ
城跡とはわからない。と書いてむあります。
白石城、今は公園となり厩門は延命寺の山門となり、茶室はあちらこちらに移動
させられて、崩れかけているそして民家の物置になっている。と書いてある。
岩切城(高森城)、液で聞いたら歩いてだと片道40分かかるというのでタクシーで
いくが、運ちゃんの話だと登り口からの両側の桜並木、その時期はかなりにぎあう
そうだ。
白河城、この城は翌年行ったので、会津若松、二本松、三春、棚倉、白河と周った
ときのもので、写真はこの時からカラーを使った、当時は石垣だけで、建物はなかった。
平城、磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つとうたわれた城も石垣、堀の一部を残す
のみだ、城の復元派と反対派がもめてるようだ、自分もそのトラブルに巻き込まれそうに
なり、本丸に入ることができなかった。と書いてあります、米沢から始まったこの紀行
この平が最後です。
棚倉城、ここも翌年行った城です、三春からこの棚倉までの交通は軌道(専用道路)の
国鉄バスです、運賃を払うときにお金を落としたことに気が付いたので、ここでEND
なんとか小銭で帰ることがてけきた。とかいてある。
相馬中村城、城内には、相馬神社、中村神社があり、旅館のご主人に案内してもらったが、
ご主人相馬神社の祭馬校祭の委員をしているようで、城よりも馬のほうに力が入っていた
ようで、城については聞けなかった。とあります。
三春城、ほとんど遺構がない、幕末あった城で、戊辰戦争の時は、東北で唯一
官軍へ寝返った藩として、まわりからは三春からは嫁を取るなまたは、三春には
嫁にだすなと言われていたので、何故遺構がないのか。と書いてあります。
これで、1~2巻の写真は終わりです、このたくさんの写真、の処分を考えなければ
いけない時期にきているようです。
歳をとると根気がなくなるのか、進行の時間に自分でもいやになります。ここまで
編集するのに、4ケ月以上かかってしまいました。それで、次の予定は自信がありません。
家族からはやめろと言われてます。
では、・・・・・。
個人での所有は皆無に近かったとおもいます,当時はおもちゃのカメラで、
一コマ8mm角の12枚撮りでした。35mmの一眼レフを初めて買ったのはたしか
昭和34~5年ころ、価格はサラリーの2.5ケ月分くらいだったと思います、写真家でもないのに、
望遠、広角の交換レンズ、当時はズームはありませんでした、
それと引き伸ばし機とエスカレートしましたが、
現像液、定着液、印画紙は日本橋の卸問屋まで買いにいかなければ入手出来ません
でした。
そこに、城に興味を持ったので・・・。
フィルムでの写真は1963年~2004年までの41年間、デジタルの写真は2001年~
現在までのたった19年です。
下の標はデジタル写真の訪城記録です、赤丸印の城はデジタルとフィルムの両方あります。
この写真と城がマッチして今に至りました。
城に興味をもって61年、1959(昭和27)年胃潰瘍で4カ月入院、退院後鎌倉の伯父の所で
静養している時、従兄が退屈だろうと買ってきてくれた本「徳川家康」全23巻のうち発行
されていた、19巻(20~23は未発行)を一週間で読破しました。
この本のなかで、城の名はでてきたので、何となく行ってみたいと思っていましたが、・・・。
仕事に復帰し最初に与えられた仕事はメロンの潅水装置(これが現在拙宅の潅水装置の原点)
メロンの潅水は4時間毎です、半世紀以上前のことです、当時今みたいに電子式のタイマーは
ありません、メカ式のタイマーのクオリティーは低く、電磁弁も信頼性に?でした。
だから自分的には失敗だったと思います、給水につていも塩ビのパイプニノズルをつけ
散水しますが、水源から遠い所は散水力が弱く、もう少し時間がほしかった。
下がその時の写真です。
メロンの現場は磐田と言う所でしたが、そこには旅館がなく浜松駅近くのビジネス旅館に
泊り、そこからの通いでした。
当時はビルなど高い建物がなかったためか、旅館の屋上(3階建て)から浜松城が朝日を受けて
きれいだったので、城まで行きました、下がその時の写真です。
白黒なので、その時の自分の気持ちは伝わりにくいのですが、下が城紀行(1)です。
当時は写真を撮った場所は三の丸跡で、ここには市営体育館で、付近にはアパートがあると
かいてあります。
この浜松城を見て、山岡荘八の「徳川家康」を読んだ後だったので、城に取りつかれました。
下が現在の浜松城です、近くに高層建物が多く天守からおりた平地では天守を見ることが
できません。
この旅館の屋上からみた城が頭に残り「お城」に対する思いが強くなりました。
この写真が最近の写真です、近くは官庁街ですが、天守だけあれば「城」と思ってせめて
本丸だけでも城を残して欲しかったとおもいます。
会社の休みはほとんど城へいきました。下が訪城記録の1ページです。
翌年7/30~8/8の間それまで関東だけでしたが、東北・北海道を回りました。
下記は当時の日本城郭協会の機関誌(現在はありません)にその時のことを投稿しました。
当時は城についての知識に乏しく、城の情報収集に本と研究会と国会図書館などで、
情報収集をしました。国会図書館は当時日曜・祭日は休みだったので、休暇はほとんど
国会図書館に使ってました、研究会の機関誌は情報源の一つだったので、当時7団体に
入ってましたし、書籍も1000冊をこえましたが、現在はほとんどが友人や図書館へ寄贈
しまして30冊くらいを残すのみです。下が蔵書一覧です。
これは一部です、左の通し番号が1037ですが、現在は1096です。
城の団体は日本城郭協会、関西城郭研究会、東海古城研究会、西日本古城研究会、日本城郭
史学会など7団体に入っていました。
当時はWebどころかパソコンもない時代、情報源が限られていました。
1965(昭和40)年頃 人物往来社から「日本城郭全集」出版にあたり、原稿、資料、古図、
古写真、など城に関する資料の依頼がありました。
この人物往来社「日本城郭全集」を発刊後倒産し、その後新人物往来社という新会社を
設立しこんどは「日本城郭体系」を出版しましたが、今度は2013年にこの会社も角川に吸収
されて、社名はなくなりました。
下が最初の「日本城郭全集 全16巻」です。
左は外ケースがあったときのもので、今は外ケースがなしい右のものです。
下はその後新人物往来社から発刊された「日本城郭体系 全20巻」です。
今回は「日本城郭全集」に掲載された1巻と2巻のものだけにします。
この2冊だけで25城45枚の写真が掲載されました。城についても3ツの城について書きましたが、
採用されたのは、1城だけでした。
下がその時城と掲載されている写真のページです。
この中で城11~城25までは10日間で周った城の写真なので、最初ベタ焼していいもの
だけを焼き増ししました、これはその時540枚の写真だったからです。
この写真は弘前城の写真の一部です、裏には忘れないように被写体の名称も書きました。
それでは「日本城郭全集 第一巻」の掲載されてあるものです。
本の中表紙です。
右側が、掲載されてある本のページで、左側が写真です。
この八戸城については、城址碑がなければ城だと認識出来るものがないと書いてます。
一関城、ここで数ページあるが、小さな小山にある公園で、山頂の平な所が
本丸だと思われる、城に関する碑など何もない。
鍋倉城、夕方5時に盛岡を発してこの遠野に着いたのは午後9時だった、遅かったので、
心配になり、車掌さんに遠野に旅館ありますかねー、と聞いたら遠野は市ですよと言われた
ここは、城よりも遠野物語のほうが、有名か、城は駅から徒歩5分の小山、山城だ
標碑があるので、場所はわかるが遺構はない。と書いてある。
福岡城(九戸城)、ここも数ページにかかれている。
盛岡城です、ここは石垣が見事だ、近世の城郭だ、石川啄木の詩に出てくる
不来方(こずかた)のお城の・・・ で頭に残っていた城だ゛。
秋田城、佐竹氏が久保田城を造る前に作った城で、今は護国寺となっている、鳥居の横に
城址碑がある。と書いてある。
大館城、この城も柱城公園となっている、本丸跡の一角に公民館、二の丸跡、三の丸跡
にはモダンな市役所等の庁舎が建ち、城址碑一つない。と書いてある。
久保田城、ここも千秋公園となって整備はされている、佐竹氏の居城20万5千石の城
かなり広いので、滞在時間が2時間近く。と書いてあります。
5年くらい前テレビ朝日がこの古井戸の写真を使わせてほしいとの話があり、
OKしまして、しかし、ふざけた内容でした、下のテロップがある写真は、その時
放映された古井戸です。
桧山城、旅館からかなりあると言うんで、タクシーを呼び城入口まで、行き、ここで
待っててほしいといったら、その運転手さんついて行っていいか、と言われいいと言って
登ったが、山道が酷い、旅館の下駄できたので、きつかった。とあります。
本荘城、跡碑はあるのだが、ほとんどが夏草にかくれて探すのに時間がかかった。
とあります。
横手城、この町は小説「山と川のある町」のモデルだときいたが、確かに城は山の山頂
山の東から南に川が流れている。と書いてある。
これで一巻は終わりです。これから下は第二巻です。
二巻の内表紙です。
巻頭の写真の一部に載ってました。松嶺城の櫓門です。
亀ヶ崎城(酒田城)、今は高校のグランドとなって遺構を探すのに骨が折れた、この城の
城主坂田氏よりも、本間氏のほうが有名で、「本間様にはおよびもないが、せめてなりたや
殿様に」とうたわれたくらい、本間美術館には上杉氏、酒田市の遺品はあるが、城についての
資料はない。と書いてあります。
寒河江城、この城は数ページに書かれてますが、この寒河江については、文も絵図も
写真も全て自分が書いたり撮ったりしたものです、何故資料の少ない中世の城をと
思われますが、他の城についても書きましたが、ボツになりました。当時市の教育委員会、
郷土史家の先生、高校の校長をはじめ多くの先生方にお世話になりました。
新庄城、最上公園となっているが場所を示す標碑がないので、この本の城図でも
解るように城図にすら曲輪の名前がない。
鶴岡城、主要な碑はあるが、藩校致道館が博物館となっているが、資料はないので、
よくわからない。と書いてあります。
松嶺城、巻頭の写真の内側から撮った写真です、砂越駅からバスで40分、今は
松嶺高校となっています、下の写真は校舎です。
米沢城、この城は今回の東北・北海道のスタートの地、昨夜寝台が取れず、3等から
2等に変えた2等は座席を倒せるので、寝ることができた、上杉の居城だった城としては、
ちょっとさびしい。とかいてある、当時は今のグリーン車を2等といっていた。
石巻城、現在本丸跡は鹿島神社となってわずかに土塁が残っているのみ、城址碑かせなければ
城跡とはわからない。と書いてむあります。
白石城、今は公園となり厩門は延命寺の山門となり、茶室はあちらこちらに移動
させられて、崩れかけているそして民家の物置になっている。と書いてある。
岩切城(高森城)、液で聞いたら歩いてだと片道40分かかるというのでタクシーで
いくが、運ちゃんの話だと登り口からの両側の桜並木、その時期はかなりにぎあう
そうだ。
白河城、この城は翌年行ったので、会津若松、二本松、三春、棚倉、白河と周った
ときのもので、写真はこの時からカラーを使った、当時は石垣だけで、建物はなかった。
平城、磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つとうたわれた城も石垣、堀の一部を残す
のみだ、城の復元派と反対派がもめてるようだ、自分もそのトラブルに巻き込まれそうに
なり、本丸に入ることができなかった。と書いてあります、米沢から始まったこの紀行
この平が最後です。
棚倉城、ここも翌年行った城です、三春からこの棚倉までの交通は軌道(専用道路)の
国鉄バスです、運賃を払うときにお金を落としたことに気が付いたので、ここでEND
なんとか小銭で帰ることがてけきた。とかいてある。
相馬中村城、城内には、相馬神社、中村神社があり、旅館のご主人に案内してもらったが、
ご主人相馬神社の祭馬校祭の委員をしているようで、城よりも馬のほうに力が入っていた
ようで、城については聞けなかった。とあります。
三春城、ほとんど遺構がない、幕末あった城で、戊辰戦争の時は、東北で唯一
官軍へ寝返った藩として、まわりからは三春からは嫁を取るなまたは、三春には
嫁にだすなと言われていたので、何故遺構がないのか。と書いてあります。
これで、1~2巻の写真は終わりです、このたくさんの写真、の処分を考えなければ
いけない時期にきているようです。
歳をとると根気がなくなるのか、進行の時間に自分でもいやになります。ここまで
編集するのに、4ケ月以上かかってしまいました。それで、次の予定は自信がありません。
家族からはやめろと言われてます。
では、・・・・・。
お城の写真資料、それを記録に残していること、大変貴重です。
わたしが幼児期の頃の浜松城の様子、まだ木がたくさん残っていたのですね。磐田、袋井、浜松近辺ではスリークォーター型の温室がまだかなり残っています。少しずつ、栽培されないところも出てきており、寂しく感じています。後継者がいないからでしょうか。
by ハマコウ (2020-12-06 15:13)
今は国会図書館の資料や、いろいろな論文までネットで検索できるようになり、便利な時代になりましたね。
そんな玉手箱がない時代、ここまで研究されたのは、素晴らしいことですね。
by 駅員3 (2020-12-07 07:23)