50年前の安土城 [城・館・チャシ・グスク]
この安土城については7年前の「城紀行」でちょっと載せましたが、前回の天守の中で、
昔は天守閣とは言わなかったと書きましたが、この安土城の跡碑では「天主閣」と書かれて
います。
以前日本城郭史学会の代表の西ヶ谷氏がなにかの本で天守閣と言われるのは、
「江戸城」と「安土城」だけだと書かれているのを見たことがありましたが他に資料を見つける
ことが出来ないので、ここは深く考えないでください。
それとこれも前回書きましたが、当時の文部省が手を加えて(天守の復元)ならぬとのこと、
ですが、では文化財だからと言うのであれば、もう少し保護に力をいれたらと思います。
では、当時の安土城についてですが、53年前ほとんど記憶がありませんので、前にもお話した
ように、訪城記(城紀行)から記憶を思いださせています。
下が城紀行のノートの1冊目です。
1冊目は1963年の浜松城から1965年の岩槻城までの56城がかかれています。
下が書かれている内容です。
「1965(昭和40)年1月3日 晴 PM2:00~PM3:40
彦根をでたのが、12:30だから1時間半かかった、安土駅で降りて、お年寄に安土城
への道を聞いたら、あんたNHKのひとか、と言われた、城跡に行っても何もないよ、
ええ解ってます、一緒に行ってやるよ、こんな城だーれもきやしねえ、NHKの方は
時々来るのですか、、時々じゃねえたまーにだ、でもお城の研究会(日本城郭協会
・関西城郭研究会・東海古城研究会)の方たちがきているのでは、来てっかもしんねいが、
あまり見かけねえ、あんたみてぃに正月早々来る人なんかはじめてだ、正月に登る人は
あんた一人だ、ここに天守閣を建てる話があったが、文化財なんとかいうところが駄目
だと言って、そのままだ。
登っている途中に困ったことに、この安土山で狩猟しているしている、人影は見えないが、
近くで音がきこえる。
石垣も崩れかけているところがある、文化財と言うならもっと保護してもらいたい。
このお年寄がいなければ、もっと時間が掛かったかもしれない。また、色々と情報
も頂大変有難うございました。」
と書かれています。このノートがなければ、忘れてしまっていることです。また、城を廻る
ために、カメラも2台内1台は35mmでしたが、もう1台は1眼レフです、当時はズームが
あったかどうかは自分が購入したのは28mm、125mm、300mmと標準の52mmでした。
が全てズームではなく固定焦点のものでした、フイルターもFV..C4.W4などでした、当時は
自分で言うのはなんですが、結構マメでした、下のようにネガケースに撮った場所、レンズ
フィルターも書き込んでいたので、場所も写真と間違えずにすることができました。
ところが、帰ってきてから写真を焼いたところが、大手門跡におばあさんが写っています、
あの時お年寄は正月早々来る人なんかはじめてだ。と云っておられたし、自分も前を
歩いている人はいなかったと思ったが、この写真は心霊写真ではありませんが、木の影
は写っているのに、おばあさんの影は写ってません、しかしこのお年寄の住所は聞いて
いなかったので確認出来ず、心に引っかかるものがあります。
では、写真です。
左は安土山(安土城)遠景、右は城址碑です
左が問題の写真です、目の前におばあさんが登っています、シャッターを切る前
フェンダーには無かった景色です、しかし、この後下山するまで、姿を見ていません、
今と違って当時は合成技術なんかありませんので不思議です。
場所は左が大手門跡で右は大手筋石垣とありました。
左は大手通り石垣で右は豊臣秀吉邸跡とありますが、安土時代は豊臣でなくて羽柴
のはずですが、石碑には豊臣とありました。
左は前田利家邸跡、右は徳川家康邸跡です
左は織田信忠帝跡、右は織田信澄邸跡です
左は森蘭丸邸跡、右は菅野九右衛門邸跡です
左は二ノ丸口、右は二ノ丸跡碑です
左黒金門跡、右は黒金門枡形石垣です。
左は黒金門枡形石垣、右は本丸口です
左は本丸口石垣ですが、かなり崩れています、右は本丸跡です
左は織田信長本廟、右はその碑です
左は織田信長墓所、右は天守の礎石です
左は天守台口石垣、右は天守台石垣です
左は石碑に「天主閣址」と書かれてあります、右は天守台より望む旧弁天内湖です
左は天守台から望む弁天内湖、右は八角平より望む弁天内湖です
左は八角平より望む弁天内湖、右は台所跡石垣です
左は総見寺本堂跡、右は総見寺仁王門です
総見寺三重塔です
当時は城に関係ある書籍もすくなく、資料も少なく、国会図書館だのみでしたが、国会図書館は
日曜日が休みだったので、休暇をとっていかなければ調べることができなかったので、当時は
日本城郭協会、関西城郭研究会、東海古城研究会、西日本城郭研究会、歴史研究会(人物往来社)
など見学会に参加して情報を集めていました。
今は便利です、本も買わずも図書館にも行かず、ネットである程度が調べられるので、
一時城郭・歴史書だけで1000冊以上の蔵書がありましたが、それで十数人の
方に差し上げていましたが、不思議と差し上げた方々が離れていくので残りの蔵書は
図書館に寄贈することにしました。
終活を始めています。いつまで続けられるか自信がありません。
昔は天守閣とは言わなかったと書きましたが、この安土城の跡碑では「天主閣」と書かれて
います。
以前日本城郭史学会の代表の西ヶ谷氏がなにかの本で天守閣と言われるのは、
「江戸城」と「安土城」だけだと書かれているのを見たことがありましたが他に資料を見つける
ことが出来ないので、ここは深く考えないでください。
それとこれも前回書きましたが、当時の文部省が手を加えて(天守の復元)ならぬとのこと、
ですが、では文化財だからと言うのであれば、もう少し保護に力をいれたらと思います。
では、当時の安土城についてですが、53年前ほとんど記憶がありませんので、前にもお話した
ように、訪城記(城紀行)から記憶を思いださせています。
下が城紀行のノートの1冊目です。
1冊目は1963年の浜松城から1965年の岩槻城までの56城がかかれています。
下が書かれている内容です。
「1965(昭和40)年1月3日 晴 PM2:00~PM3:40
彦根をでたのが、12:30だから1時間半かかった、安土駅で降りて、お年寄に安土城
への道を聞いたら、あんたNHKのひとか、と言われた、城跡に行っても何もないよ、
ええ解ってます、一緒に行ってやるよ、こんな城だーれもきやしねえ、NHKの方は
時々来るのですか、、時々じゃねえたまーにだ、でもお城の研究会(日本城郭協会
・関西城郭研究会・東海古城研究会)の方たちがきているのでは、来てっかもしんねいが、
あまり見かけねえ、あんたみてぃに正月早々来る人なんかはじめてだ、正月に登る人は
あんた一人だ、ここに天守閣を建てる話があったが、文化財なんとかいうところが駄目
だと言って、そのままだ。
登っている途中に困ったことに、この安土山で狩猟しているしている、人影は見えないが、
近くで音がきこえる。
石垣も崩れかけているところがある、文化財と言うならもっと保護してもらいたい。
このお年寄がいなければ、もっと時間が掛かったかもしれない。また、色々と情報
も頂大変有難うございました。」
と書かれています。このノートがなければ、忘れてしまっていることです。また、城を廻る
ために、カメラも2台内1台は35mmでしたが、もう1台は1眼レフです、当時はズームが
あったかどうかは自分が購入したのは28mm、125mm、300mmと標準の52mmでした。
が全てズームではなく固定焦点のものでした、フイルターもFV..C4.W4などでした、当時は
自分で言うのはなんですが、結構マメでした、下のようにネガケースに撮った場所、レンズ
フィルターも書き込んでいたので、場所も写真と間違えずにすることができました。
ところが、帰ってきてから写真を焼いたところが、大手門跡におばあさんが写っています、
あの時お年寄は正月早々来る人なんかはじめてだ。と云っておられたし、自分も前を
歩いている人はいなかったと思ったが、この写真は心霊写真ではありませんが、木の影
は写っているのに、おばあさんの影は写ってません、しかしこのお年寄の住所は聞いて
いなかったので確認出来ず、心に引っかかるものがあります。
では、写真です。
左は安土山(安土城)遠景、右は城址碑です
左が問題の写真です、目の前におばあさんが登っています、シャッターを切る前
フェンダーには無かった景色です、しかし、この後下山するまで、姿を見ていません、
今と違って当時は合成技術なんかありませんので不思議です。
場所は左が大手門跡で右は大手筋石垣とありました。
左は大手通り石垣で右は豊臣秀吉邸跡とありますが、安土時代は豊臣でなくて羽柴
のはずですが、石碑には豊臣とありました。
左は前田利家邸跡、右は徳川家康邸跡です
左は織田信忠帝跡、右は織田信澄邸跡です
左は森蘭丸邸跡、右は菅野九右衛門邸跡です
左は二ノ丸口、右は二ノ丸跡碑です
左黒金門跡、右は黒金門枡形石垣です。
左は黒金門枡形石垣、右は本丸口です
左は本丸口石垣ですが、かなり崩れています、右は本丸跡です
左は織田信長本廟、右はその碑です
左は織田信長墓所、右は天守の礎石です
左は天守台口石垣、右は天守台石垣です
左は石碑に「天主閣址」と書かれてあります、右は天守台より望む旧弁天内湖です
左は天守台から望む弁天内湖、右は八角平より望む弁天内湖です
左は八角平より望む弁天内湖、右は台所跡石垣です
左は総見寺本堂跡、右は総見寺仁王門です
総見寺三重塔です
当時は城に関係ある書籍もすくなく、資料も少なく、国会図書館だのみでしたが、国会図書館は
日曜日が休みだったので、休暇をとっていかなければ調べることができなかったので、当時は
日本城郭協会、関西城郭研究会、東海古城研究会、西日本城郭研究会、歴史研究会(人物往来社)
など見学会に参加して情報を集めていました。
今は便利です、本も買わずも図書館にも行かず、ネットである程度が調べられるので、
一時城郭・歴史書だけで1000冊以上の蔵書がありましたが、それで十数人の
方に差し上げていましたが、不思議と差し上げた方々が離れていくので残りの蔵書は
図書館に寄贈することにしました。
終活を始めています。いつまで続けられるか自信がありません。
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