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江戸城の濠と川 [城・館・チャシ・グスク]

 長い間お休みをしました、傘寿をすぎてからは根気、気力、体調が整わず、実踏もストップして
しまい、それではと濠と川を調べ始めました。
 江戸城は太田道灌が築城し、徳川家康が入府した当時は、現在の本丸跡のみでした。
下図が当時の江戸でした。
Scan-1.jpg
 家康が入府当時は濠はなく、平川のみでした。現在の大手濠あたりが平川の河口でした。
その後は平川を利用して濠を造りましたが濠にも高低差をつけて流してました。
しかし、たくさんの川が流れている平川はたびたび氾濫しましたので、現在の水道橋から
柳橋までのバイパスを造りました、それが、神田川であり江戸城の外濠にもなっています。
 また、当時の川で谷端川、小石川、旧石神井川は江戸初期に無くなっているので、その資料は
少なく、本によっては、小石川という川はなかったとあります。
ただし旧石神井川は現在石神井川として王子を通り堀船で隅田川に流れています。
また、神田川(江戸川、平川、飯田川)水系の徳殿池(豊島区要町の粟島神社)からの
川は名前がわかりませんし、江古田の合流点の手前で無くなっているので、地下に
潜ったのか、?です。


では、江戸開府してからは下記図のように川がずいぶん増えています。
Scan.jpg
上図に載っていないのですが、下表は江戸城の濠と関連の川です。
Scan-2.jpg
川は交通の手段としても使われていました、それが河岸です、いまでも鎌倉河岸
などが残っていますが、当時は40~50くらい河岸がありました。


しかし、明治になってかなりの堀(川)が埋め立てられたか゛、地下に潜ったのか、
これは、当時の府知事が火事の多い東京を西洋のように、道路を広げ類焼を減らす
ために、埋められましたので、江戸時代の川は現在道路になっています。
また、その時府知事は道路に面した建物はレンガ造りを推奨しましたが、当時レンガ
は高価だったので、東京にもレンガ工場を造ったそうです。
 西洋に習ったのは車道・歩道を区分けして、整備したそうです。
最初に造られたその西洋風道路は銀座通りです、歩道がかなり広く作られています。

江戸時代、川端には柳がありました、今でも皇居の濠端に柳が残っています、昭和の歌にも
[るんるん]昔恋しい銀座の柳・・・」
[るんるん]柳碧める日銀座に燕が飛ぶ日・・・」
などがありました、今は道路になった柳並木ですが、明治以降は柳ではなく、ボプラ、楓、
紅葉、公孫樹、桜などに変わっているそうです。
下記は今でも残っている江戸城の柳です。
撮影は2007-9-20です。
IMG_1416.JPGIMG_1438.JPG
左は二重橋手前の桜田濠で、右は大手門手前の桔梗濠の柳です。

インフルエンザが広がってます、皆様お身体に気を付けご自愛くださいませ。
自分は肺気腫のため風邪をひくと肺炎になりやすいと医者に言われてますので、
先月に予防接種をすませました。


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駅員3

おはようございます!
お元気そうで何よりです。
濠・・・とても興味深い題材ですね。
お茶の水の仙台濠・・・伊達政宗が掘削した残土を日比谷の埋め立てに使ったとの伝説が伝わっていますが、胎土分析をすると、どうも神田川を下って下町の埋め立てに使われていたという事のようです。
by 駅員3 (2019-12-31 08:43) 

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