品川台場 [城・館・チャシ・グスク]
体調を崩し、気が付いたら半年ぶりです。
江戸城について踏査を始めてまだ「品川台場」「御殿山下台場」「浜御殿」「幸橋門跡」「芝口門跡」
「高輪大木戸跡」とまだ6ケ所しか終わってません。
11月3日に合わせて、文化庁の「文化財保護月間ですが、これも昨年辞めたので、資料も集まらな
くなりました。
台場はペリーの来航以来で、幕府、各藩で外国からの防衛のため、台場が築造されましたので、
海岸線を持つ藩は台場を造り、海からの脅威に対応しました。
幕府は
1. 観音崎と富津に台場を建設する。
2. 品川の内海に台場を建設する。
としましたが、嘉永5(1852)年5月に西の丸の焼失、嘉永6(1853)6月に12代将軍家慶の死去と
財政難のため第一案は困難と、第二案のみを計画しました。
建築案は品川の漁師町から東北の深川須崎(現在の江東区東陽町)にかけて連珠のように11
基、御殿山下の海浜に1基を造る案でした。
その後も戊辰戦争、西南戦争でても造られました。
幕府は嘉永6(1853)年伊豆韮山代官の江川英龍に命じ、品川台場に砲台を作らせました。
工事は急ピッチで進められおよそ8ケ月の工期で、ペリー再来航までに、第一~第三台場までを
完成しました。これを品川砲台(品海砲台)と呼ばれました。
台場は正方形、五角形の洋式砲台で、その後第五~第六台場が完成しましたが、第四、第七
台場は途中で中止となりました、理由は財政難のためだったようです。
(七年後に完成したという説もあります、間違いやすいかもしれませんが、後記にもあるように
七つの台場と言う言葉があるので、七つだったのかもしれません。)
やはり財政難だったためか、第八~第十一台場は築造されることはありませんでした。
しかし御殿山下台場は築造されました。
この御殿山下台場については、次回にします。
幕末幕府が財政難だった様子が下の写真にみられます。
この写真は当時の太政官の役人だった蜷川式胤が写真師横山松三郎絵師高橋由一の
協力を得て明治4(1871)年に作成した旧江戸城の記録の写真集です。
この「旧江戸城写真帳」は東京国立博物館蔵です。
下記の写真はその写真ですが、一見廃屋にみえます、当時財政が苦しく御殿以外には
手がつけられなかったのでしょう。
これをみると歌の一節「菊が栄え 葵が枯れる」を思いたします。
下は現在の地図に台場の位置を示したものです。
現在遺構が跡を示す何かがある所は赤丸で青丸は遺構が確認できない所です。
第八~第十一台場は資料がないので、位置を示すことができません。
下はまだ海の科学館や品川埠頭が出来る前の、国土地理院の航空写真です。
第四と第七代場は勝手に位置をかきましたが、その他の台場ははっきりと写っています。
資材の調達
木材
木材に関しては下総国旧根戸村(現在の千葉県我孫子市と柏市の一部)と鑓水村(八王子市)
この村も御殿山と呼ばれている広大な御林があり、ここから運びだされたのは4924本でした。
たまたま10年くらい前「地域のこぼれ話」に出席したときの資料が下です。
石材
石材は伊豆・相模・駿河の3国に石材の調達を命じ、石材の切り出し、運搬にはおよそ1000人を
動員しました。
土
埋め立て土は品川区にある御殿山、高輪、高輪泉岳寺の境内から搬出しましたが、これでは
足りず隅田川の浚渫土も使用しました。
第一台場
品川埠頭の中央東側(品川区港南5-2)あたり、現在コンテナ置き場の南側あたり
台二台場
第一と第三台場の直線上の中間あたりあった、航路の邪魔となるため撤去されました。
第三台場
現在立ち入ることができる唯一の遺構です。
現在のお台場海浜公園になっています、この公園には駐車場、レインボーブリッジの
歩行者通路がり、第三台場には防波堤跡の道とつながっています。
この後は写真で説明します。
左は公園から見た防波堤(前記航空写真参照)でその先が第三台場です。
右は第三台場への道(旧防波堤跡)
左第三台場入口です、当時は陸続きではないので、ありませんでした、右はその横の石垣です。
左はレインボーブリッジから見た第三台場です、右は旧防波堤と台場です。
船着場です資材はここから搬入しました、船着場右に台場碑がみえます。
台場から見た船着場です。
柵の中の石は石垣の築造のため運ばれてきた石の残りでしょうか。
お台場海浜公園の案内板です。
第三台場の説明板です。
陣屋跡ですが、このコンクリートの礎石は大正時代になって作られたものです。
左は弾薬庫跡で、右はその近くの石垣です。
砲台のレプリカです。
台場碑ですが、正面は海を向いています、誰に見せるための碑ですかねー。
左は格納庫跡のかまどです、右は建物跡のようです、格納庫跡が。
ここも何かの建物跡のようです、ここも格納庫跡か。
台場の中です砲台の内側はこのように土塁に囲まれていて、陣屋、格納庫などのほか
駐屯していた武士たちの生活の場です。
防波堤(現在の台場への道)にある碑です。
第四台場
天王洲の第一ホテル付近(品川区東品川2丁目)
天王洲アイルノシーフォトスクエアはここを埋め立てて造成されました。
いまでも水路に面した石垣は第四代場の石を積みなおしたものです。
第五台場
品川埠頭の東京入国管理局の東北あたり(品川区港南5-11付近)ですが
何の遺構もありません。
第六台場
現存しレインボーブリッヂの橋脚近くにありますが、立ち入り禁止のため
レインボーブリッヂの歩道橋からしかみることができません。
左は第三台場から見た第六台場で右はレインボーブリッジから見た左第三正面第六台場です。
レインボーブリッジから見た第六台場ですが、正面(一番近い場所)からは金網が邪魔しています。
レインボーブリッジから見た第六台場です。
第六台場の船着場です。
鳥の島とありますが、前記航空写真でみえる防波堤です。これも昭和初期に築造
されたものです。
これはおまけでレインボーブリッジの歩行者専用道路で横は車道で上はゆりかもめです。
完成した台場は親藩大名が海防にあたりました。
第一台場 川越藩
台二台場 会津藩
第三台場 忍藩
です。
尚、第七代場はどこまでの進行か、また位置もはっきりとはしていません。
下のミュージアムで資料を見ることができます。
どこまで続けられるかは?ですが、・・・。
次回は御殿山下台場です。
江戸城について踏査を始めてまだ「品川台場」「御殿山下台場」「浜御殿」「幸橋門跡」「芝口門跡」
「高輪大木戸跡」とまだ6ケ所しか終わってません。
11月3日に合わせて、文化庁の「文化財保護月間ですが、これも昨年辞めたので、資料も集まらな
くなりました。
台場はペリーの来航以来で、幕府、各藩で外国からの防衛のため、台場が築造されましたので、
海岸線を持つ藩は台場を造り、海からの脅威に対応しました。
幕府は
1. 観音崎と富津に台場を建設する。
2. 品川の内海に台場を建設する。
としましたが、嘉永5(1852)年5月に西の丸の焼失、嘉永6(1853)6月に12代将軍家慶の死去と
財政難のため第一案は困難と、第二案のみを計画しました。
建築案は品川の漁師町から東北の深川須崎(現在の江東区東陽町)にかけて連珠のように11
基、御殿山下の海浜に1基を造る案でした。
その後も戊辰戦争、西南戦争でても造られました。
幕府は嘉永6(1853)年伊豆韮山代官の江川英龍に命じ、品川台場に砲台を作らせました。
工事は急ピッチで進められおよそ8ケ月の工期で、ペリー再来航までに、第一~第三台場までを
完成しました。これを品川砲台(品海砲台)と呼ばれました。
台場は正方形、五角形の洋式砲台で、その後第五~第六台場が完成しましたが、第四、第七
台場は途中で中止となりました、理由は財政難のためだったようです。
(七年後に完成したという説もあります、間違いやすいかもしれませんが、後記にもあるように
七つの台場と言う言葉があるので、七つだったのかもしれません。)
やはり財政難だったためか、第八~第十一台場は築造されることはありませんでした。
しかし御殿山下台場は築造されました。
この御殿山下台場については、次回にします。
幕末幕府が財政難だった様子が下の写真にみられます。
この写真は当時の太政官の役人だった蜷川式胤が写真師横山松三郎絵師高橋由一の
協力を得て明治4(1871)年に作成した旧江戸城の記録の写真集です。
この「旧江戸城写真帳」は東京国立博物館蔵です。
下記の写真はその写真ですが、一見廃屋にみえます、当時財政が苦しく御殿以外には
手がつけられなかったのでしょう。
これをみると歌の一節「菊が栄え 葵が枯れる」を思いたします。
下は現在の地図に台場の位置を示したものです。
現在遺構が跡を示す何かがある所は赤丸で青丸は遺構が確認できない所です。
第八~第十一台場は資料がないので、位置を示すことができません。
下はまだ海の科学館や品川埠頭が出来る前の、国土地理院の航空写真です。
第四と第七代場は勝手に位置をかきましたが、その他の台場ははっきりと写っています。
資材の調達
木材
木材に関しては下総国旧根戸村(現在の千葉県我孫子市と柏市の一部)と鑓水村(八王子市)
この村も御殿山と呼ばれている広大な御林があり、ここから運びだされたのは4924本でした。
たまたま10年くらい前「地域のこぼれ話」に出席したときの資料が下です。
石材
石材は伊豆・相模・駿河の3国に石材の調達を命じ、石材の切り出し、運搬にはおよそ1000人を
動員しました。
土
埋め立て土は品川区にある御殿山、高輪、高輪泉岳寺の境内から搬出しましたが、これでは
足りず隅田川の浚渫土も使用しました。
第一台場
品川埠頭の中央東側(品川区港南5-2)あたり、現在コンテナ置き場の南側あたり
台二台場
第一と第三台場の直線上の中間あたりあった、航路の邪魔となるため撤去されました。
第三台場
現在立ち入ることができる唯一の遺構です。
現在のお台場海浜公園になっています、この公園には駐車場、レインボーブリッジの
歩行者通路がり、第三台場には防波堤跡の道とつながっています。
この後は写真で説明します。
左は公園から見た防波堤(前記航空写真参照)でその先が第三台場です。
右は第三台場への道(旧防波堤跡)
左第三台場入口です、当時は陸続きではないので、ありませんでした、右はその横の石垣です。
左はレインボーブリッジから見た第三台場です、右は旧防波堤と台場です。
船着場です資材はここから搬入しました、船着場右に台場碑がみえます。
台場から見た船着場です。
柵の中の石は石垣の築造のため運ばれてきた石の残りでしょうか。
お台場海浜公園の案内板です。
第三台場の説明板です。
陣屋跡ですが、このコンクリートの礎石は大正時代になって作られたものです。
左は弾薬庫跡で、右はその近くの石垣です。
砲台のレプリカです。
台場碑ですが、正面は海を向いています、誰に見せるための碑ですかねー。
左は格納庫跡のかまどです、右は建物跡のようです、格納庫跡が。
ここも何かの建物跡のようです、ここも格納庫跡か。
台場の中です砲台の内側はこのように土塁に囲まれていて、陣屋、格納庫などのほか
駐屯していた武士たちの生活の場です。
防波堤(現在の台場への道)にある碑です。
第四台場
天王洲の第一ホテル付近(品川区東品川2丁目)
天王洲アイルノシーフォトスクエアはここを埋め立てて造成されました。
いまでも水路に面した石垣は第四代場の石を積みなおしたものです。
第五台場
品川埠頭の東京入国管理局の東北あたり(品川区港南5-11付近)ですが
何の遺構もありません。
第六台場
現存しレインボーブリッヂの橋脚近くにありますが、立ち入り禁止のため
レインボーブリッヂの歩道橋からしかみることができません。
左は第三台場から見た第六台場で右はレインボーブリッジから見た左第三正面第六台場です。
レインボーブリッジから見た第六台場ですが、正面(一番近い場所)からは金網が邪魔しています。
レインボーブリッジから見た第六台場です。
第六台場の船着場です。
鳥の島とありますが、前記航空写真でみえる防波堤です。これも昭和初期に築造
されたものです。
これはおまけでレインボーブリッジの歩行者専用道路で横は車道で上はゆりかもめです。
完成した台場は親藩大名が海防にあたりました。
第一台場 川越藩
台二台場 会津藩
第三台場 忍藩
です。
尚、第七代場はどこまでの進行か、また位置もはっきりとはしていません。
下のミュージアムで資料を見ることができます。
どこまで続けられるかは?ですが、・・・。
次回は御殿山下台場です。
お久しぶりです!
体調を崩されていたのですね。
寒くなってきたので、どうぞご自愛ください。
幕末の写真を見ると埋蔵金なんて話は夢物語なのだな、なんて思いました(^^;;
by 司馬亮 (2018-11-14 23:34)
おはようございます。
天候不順・・天変地異お大事になさってください。
by YUTAじい (2018-11-15 06:59)
お久しぶりです。
ご訪問いただき有難うございます。
いつもながらの詳しい解説に驚いています。
また楽しみに疑わせていただきます。
よろしくお願いいたします。
by lamer (2018-11-15 10:59)