一昔前のお城の姿 3 [城・館・チャシ・グスク]
今回は天守について載せる予定でしたが、まだ編集ができていないので、今回は
前回の続きです。
当時の城についてほとんど記憶にないので、「城紀行」より思い出していますが、
読んでも記憶は蘇えってくれないのが、現状です。
武蔵松山城 1963(昭和38)年9月22日
そのときを思いだすことが出来ないので、「城紀行」より。
「今日は協会の見学会、参加者は100人くらいだろうか、講師は鳥羽先生、自然の要害
川をバックにした小山にあるが、慶長5年に廃城となっているので、遺構がなく、城址碑
があるだけの城だ。・・・。」
この時青鳥城もいったのでレジュメは二つの城が書かれている。
多分このレジュメも小和田先生方がガリ板で書かれたものでしょう。
城址碑です。
城入り口
何故か3枚の写真しかありません。
青鳥城 1963(昭和38)年9月22日
この城も見学会で武蔵松山城の後に訪れた城です。これも「城紀行」から
「・・・。現在民家、畑地となっている・・・。構築形式からみて南北朝時代のものだ
そうだ。・・・。」
左は説明板、右は空堀
左内掘、右一文字塁。
城内の城主の墓
小田原城 1963(昭和38)年10月6日
「城は公園となり、動物園、遊園地、グランド、市庁舎、小学校などがあり、復興
したばかりの、天守に上がり、石垣山をみたがよく判らない、天守内は大久保家の
資料、駕籠、小田原提灯などが展示されていた。」
残念だったのは、当時小田原古城については知らなかったので北条の城八幡山
古城に行けなかったことです。
下がそのときのパンフですが、16ページの小冊子です。今の1枚のパンプより
いいです。
復興天守ですが、当時は天守の石垣のところまで、車が入れました。
櫓は二ノ丸の隅櫓です、隅櫓の左は現在整備された馬屋曲輪で木々は
伐採されています。
左は本丸跡、右は二ノ丸から本丸へ行く門跡かも?。
常磐木門跡の石垣です、現在は門が復元されています。
お茶壷付近です。
塀ですが、現在あるかどうかは確認していません、と言うのは場所がどこただか
解らないので。右は天守1階にあった駕籠と小田原提灯です。
左の階段横に天守閣完成とかかれたものが置かれていました、右は当時小田原駅の
駅ビルの二階は食堂だったので、そこから小田原城の天守がみえましたが、
現在はビルがありみえません。
石垣山一夜城 1963(昭和38)年10月6日
記憶がないので、「城紀行」からです。
「"草深き古城をそよぐ野分哉"
"虫の音に偲ぶ古城か苔の色"
小田原の帰りによったのだが、本丸跡以外は何の標識もないので、位置の確認
ができない、史蹟とは名ばかり、動物園や遊園地を少しでも史蹟の整備に回して
ほしい。・・・。」
写真右は石垣山入口ですが、今考えますとよく一人で行ったなーと言うかんじ。
写真左は本丸跡碑ですが、草が生い茂り近けません。
写真みぎは山頂にある碑、右は二ノ丸跡か。
小田原城をみましたが、見えませんでした。
この小田原城、石垣山一夜城のフィルム、デジタル化したCD、プリントした
写真は小田原城館長に差し上げました。
このように学術的目的に使われるかたには差し上げてます。
千葉城 1964(昭和39)年1月19日
「今は公園となって子供の遊び場となっている、本丸は小高い丘といったところに
あり、西に東京湾、東北に千葉市内で眺めも良い、昔を偲ぶのは苔むした
石垣があるのみ、本丸の中央に城址碑があるのみだ。」
城址碑
左は本丸跡、右は本丸石垣
左は開府記念碑、右は城跡からみた市街地
城跡から見た市街地
江戸城 1964(昭和39)年3月22~23日
「本当は1日で回るつもりだったが、体調が悪く2日で回った、内掘に沿って
回ったが、どの門にも警官がいて中をのぞくことすらできない、そのくせ
管理は全然出来ていない史蹟としてどうなっているのだろうか。」
左は城址碑ですが、普通この碑は城の入口か本丸にあるものですが、何故か
この碑は半蔵門と三宅坂の間の三宅坂寄りの歩道の脇にあります、右は柳の
井戸これはこの碑の近くにあります。
左は大手門でが、当時は渡櫓門はありませんでした、また、中に入ることも
出来ません、右は平河濠の石垣です。
平河橋て゛す。
左は平河門です、右は乾門です、この門は西の丸の裏門を移築したもので、この門
がなければ西の丸紅葉山入口の紅葉山山下門もいまはないので、西の丸まで、行く
ことができるので、明治になって新しく作った門です。
左は竹橋門跡碑で右は竹橋門跡付近
左は三の丸、右は和田倉門碑
和田倉橋です。
清水門碑と清水門ですが、これは史蹟と言うより資材置場かゴミ置場のようです。
当時ここに何かがあったようで、関係者以外は入れなかったようです。
北桔橋門、この時ははいれませんでした。
半蔵門ですが、ここも資材置場になっています、この門明治の初め取り壊され
ました、高麗門も渡櫓門も壊されたのですが、ここから西の丸の吹上御所が
近いので急遽造られた高麗門です。
この写真は江戸城の大手門の変革を1枚のパネルにしました。
左上は明治4年撮影のもので東京国立博物館蔵です。
右上は上記と同じ昭和39年3月23日撮影。
左下は東北大震災で江戸城もかなり被害がありました、平成23年10月12日撮影
右下は現在の大手門です、平成19年10月21日撮影。
川越城 1964(昭和39)年4月5日
1964(昭和39)年11月15日
この城はこの年に2度も行っている1度目は単独行動だったが、2度目は協会の
見学会でいきました。
「行って驚いた、表玄関(武徳殿)は唯一の現存する建物なのに、高校の物置と
なっている、城址は公園となっていて、校舎、グランドなどになっている。
貴重な遺構、文化財として保存出来ないのか。
歌で有名な"天神様の細道じゃ"の三好神社が本丸跡にある。」
「この春行ったばかりだけれど、何か新しい発見を期待したが、話は川越合戦の
話が主で収穫なし、お話は市の教育委員会の方だっただけに余計に残念。
この後城址を一回りとてから喜多院に行く、三代将軍家光の誕生之間、春日局の
化粧之間など、住職の説明で回った。」
これを読んでわかったのですが、一人で行ったときは、喜多院には行かなかったというより
喜多院の存在すら知らなかったようです、また協会の見学会の時写真を撮ったと思ったの
ですが、この写真もみあたりません。それで今回の写真は一回目の時のものです。
川越城のパンフですが、どちらの時ものかわかりません。
見学会のレジュメです。
城址碑です、今はこの位置にありません。
表玄関と式台です。
表玄関横です、後ろにみえるのが、学校の校舎です。
左は土塁の上から見た本丸で、右は三好神社参道です。
富士見櫓跡です。
本丸土塁です。
佐倉城 1964(昭和39)年9月27日
この城も協会の見学会に参加しましたが。
「今日の講師の先生方の豪華さにはおどろいた、会長の井上氏、鳥羽先生、
市の史蹟編纂の篠丸先生、市長であり最後の城主堀田氏これらの方々が
説明されたが、多くの先生方の説明ではかえって頭に残っていない。」
と言うわけで、城については、何もかかれていない。
そのときのレジュメです。
そのとき協会に撮っていただいた写真です。
左説明板、右城址碑です。
本丸跡です。
左は堀、右は空堀です。
土塁です。
城入り口です。
岩槻城 1965(昭和40)年3月25日
この城も協会の見学会でいきました。助かったのは跡碑がなくても説明で
場所の名前が判ったことです。
レジュメです。
城址碑と本丸跡です。
門説明板と大手門です。
大手門と本丸土塁です。
左二ノ丸跡、右武具櫓跡です。
新曲輪跡です。
左竹沢曲輪跡、右は空堀です。
最近歳のせいか、根気がなくなり、今回のこれを書くのに20日もかかりました。
この現象の一つは現在左眼が加齢黄班になってからほとんど視力がないので、
疲れてしまうのも原因の一つかもしれません。
家族や友人たちに、そろそろ辞めたらと言われています、でもギブアップはしたくない
とおもいますが、いまだにほとんど毎日のように仕事の夢をみます。
体が許すなら仕事はしたいとおもいますが、・・・。
次回は天守のお話ですが、模擬、観光用をいれますと、それに個人的に造られた
ものや、天守もどきをいれますと驚く数になります。
前回の続きです。
当時の城についてほとんど記憶にないので、「城紀行」より思い出していますが、
読んでも記憶は蘇えってくれないのが、現状です。
武蔵松山城 1963(昭和38)年9月22日
そのときを思いだすことが出来ないので、「城紀行」より。
「今日は協会の見学会、参加者は100人くらいだろうか、講師は鳥羽先生、自然の要害
川をバックにした小山にあるが、慶長5年に廃城となっているので、遺構がなく、城址碑
があるだけの城だ。・・・。」
この時青鳥城もいったのでレジュメは二つの城が書かれている。
多分このレジュメも小和田先生方がガリ板で書かれたものでしょう。
城址碑です。
城入り口
何故か3枚の写真しかありません。
青鳥城 1963(昭和38)年9月22日
この城も見学会で武蔵松山城の後に訪れた城です。これも「城紀行」から
「・・・。現在民家、畑地となっている・・・。構築形式からみて南北朝時代のものだ
そうだ。・・・。」
左は説明板、右は空堀
左内掘、右一文字塁。
城内の城主の墓
小田原城 1963(昭和38)年10月6日
「城は公園となり、動物園、遊園地、グランド、市庁舎、小学校などがあり、復興
したばかりの、天守に上がり、石垣山をみたがよく判らない、天守内は大久保家の
資料、駕籠、小田原提灯などが展示されていた。」
残念だったのは、当時小田原古城については知らなかったので北条の城八幡山
古城に行けなかったことです。
下がそのときのパンフですが、16ページの小冊子です。今の1枚のパンプより
いいです。
復興天守ですが、当時は天守の石垣のところまで、車が入れました。
櫓は二ノ丸の隅櫓です、隅櫓の左は現在整備された馬屋曲輪で木々は
伐採されています。
左は本丸跡、右は二ノ丸から本丸へ行く門跡かも?。
常磐木門跡の石垣です、現在は門が復元されています。
お茶壷付近です。
塀ですが、現在あるかどうかは確認していません、と言うのは場所がどこただか
解らないので。右は天守1階にあった駕籠と小田原提灯です。
左の階段横に天守閣完成とかかれたものが置かれていました、右は当時小田原駅の
駅ビルの二階は食堂だったので、そこから小田原城の天守がみえましたが、
現在はビルがありみえません。
石垣山一夜城 1963(昭和38)年10月6日
記憶がないので、「城紀行」からです。
「"草深き古城をそよぐ野分哉"
"虫の音に偲ぶ古城か苔の色"
小田原の帰りによったのだが、本丸跡以外は何の標識もないので、位置の確認
ができない、史蹟とは名ばかり、動物園や遊園地を少しでも史蹟の整備に回して
ほしい。・・・。」
写真右は石垣山入口ですが、今考えますとよく一人で行ったなーと言うかんじ。
写真左は本丸跡碑ですが、草が生い茂り近けません。
写真みぎは山頂にある碑、右は二ノ丸跡か。
小田原城をみましたが、見えませんでした。
この小田原城、石垣山一夜城のフィルム、デジタル化したCD、プリントした
写真は小田原城館長に差し上げました。
このように学術的目的に使われるかたには差し上げてます。
千葉城 1964(昭和39)年1月19日
「今は公園となって子供の遊び場となっている、本丸は小高い丘といったところに
あり、西に東京湾、東北に千葉市内で眺めも良い、昔を偲ぶのは苔むした
石垣があるのみ、本丸の中央に城址碑があるのみだ。」
城址碑
左は本丸跡、右は本丸石垣
左は開府記念碑、右は城跡からみた市街地
城跡から見た市街地
江戸城 1964(昭和39)年3月22~23日
「本当は1日で回るつもりだったが、体調が悪く2日で回った、内掘に沿って
回ったが、どの門にも警官がいて中をのぞくことすらできない、そのくせ
管理は全然出来ていない史蹟としてどうなっているのだろうか。」
左は城址碑ですが、普通この碑は城の入口か本丸にあるものですが、何故か
この碑は半蔵門と三宅坂の間の三宅坂寄りの歩道の脇にあります、右は柳の
井戸これはこの碑の近くにあります。
左は大手門でが、当時は渡櫓門はありませんでした、また、中に入ることも
出来ません、右は平河濠の石垣です。
平河橋て゛す。
左は平河門です、右は乾門です、この門は西の丸の裏門を移築したもので、この門
がなければ西の丸紅葉山入口の紅葉山山下門もいまはないので、西の丸まで、行く
ことができるので、明治になって新しく作った門です。
左は竹橋門跡碑で右は竹橋門跡付近
左は三の丸、右は和田倉門碑
和田倉橋です。
清水門碑と清水門ですが、これは史蹟と言うより資材置場かゴミ置場のようです。
当時ここに何かがあったようで、関係者以外は入れなかったようです。
北桔橋門、この時ははいれませんでした。
半蔵門ですが、ここも資材置場になっています、この門明治の初め取り壊され
ました、高麗門も渡櫓門も壊されたのですが、ここから西の丸の吹上御所が
近いので急遽造られた高麗門です。
この写真は江戸城の大手門の変革を1枚のパネルにしました。
左上は明治4年撮影のもので東京国立博物館蔵です。
右上は上記と同じ昭和39年3月23日撮影。
左下は東北大震災で江戸城もかなり被害がありました、平成23年10月12日撮影
右下は現在の大手門です、平成19年10月21日撮影。
川越城 1964(昭和39)年4月5日
1964(昭和39)年11月15日
この城はこの年に2度も行っている1度目は単独行動だったが、2度目は協会の
見学会でいきました。
「行って驚いた、表玄関(武徳殿)は唯一の現存する建物なのに、高校の物置と
なっている、城址は公園となっていて、校舎、グランドなどになっている。
貴重な遺構、文化財として保存出来ないのか。
歌で有名な"天神様の細道じゃ"の三好神社が本丸跡にある。」
「この春行ったばかりだけれど、何か新しい発見を期待したが、話は川越合戦の
話が主で収穫なし、お話は市の教育委員会の方だっただけに余計に残念。
この後城址を一回りとてから喜多院に行く、三代将軍家光の誕生之間、春日局の
化粧之間など、住職の説明で回った。」
これを読んでわかったのですが、一人で行ったときは、喜多院には行かなかったというより
喜多院の存在すら知らなかったようです、また協会の見学会の時写真を撮ったと思ったの
ですが、この写真もみあたりません。それで今回の写真は一回目の時のものです。
川越城のパンフですが、どちらの時ものかわかりません。
見学会のレジュメです。
城址碑です、今はこの位置にありません。
表玄関と式台です。
表玄関横です、後ろにみえるのが、学校の校舎です。
左は土塁の上から見た本丸で、右は三好神社参道です。
富士見櫓跡です。
本丸土塁です。
佐倉城 1964(昭和39)年9月27日
この城も協会の見学会に参加しましたが。
「今日の講師の先生方の豪華さにはおどろいた、会長の井上氏、鳥羽先生、
市の史蹟編纂の篠丸先生、市長であり最後の城主堀田氏これらの方々が
説明されたが、多くの先生方の説明ではかえって頭に残っていない。」
と言うわけで、城については、何もかかれていない。
そのときのレジュメです。
そのとき協会に撮っていただいた写真です。
左説明板、右城址碑です。
本丸跡です。
左は堀、右は空堀です。
土塁です。
城入り口です。
岩槻城 1965(昭和40)年3月25日
この城も協会の見学会でいきました。助かったのは跡碑がなくても説明で
場所の名前が判ったことです。
レジュメです。
城址碑と本丸跡です。
門説明板と大手門です。
大手門と本丸土塁です。
左二ノ丸跡、右武具櫓跡です。
新曲輪跡です。
左竹沢曲輪跡、右は空堀です。
最近歳のせいか、根気がなくなり、今回のこれを書くのに20日もかかりました。
この現象の一つは現在左眼が加齢黄班になってからほとんど視力がないので、
疲れてしまうのも原因の一つかもしれません。
家族や友人たちに、そろそろ辞めたらと言われています、でもギブアップはしたくない
とおもいますが、いまだにほとんど毎日のように仕事の夢をみます。
体が許すなら仕事はしたいとおもいますが、・・・。
次回は天守のお話ですが、模擬、観光用をいれますと、それに個人的に造られた
ものや、天守もどきをいれますと驚く数になります。
貴重な資料ですね。
一枚一枚大切に撮られたのですね。
写真の自動車を見ると時代を感じます。
by ハマコウ (2018-03-22 17:55)
石垣山城の石垣が、今より立派に見えますね。
貴重な写真、ありがとうございます。
by ガンビー (2018-03-22 19:08)