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藩校と現在の学校 [城・館・チャシ・グスク]

 まだ完全なものではありませんが、また、間違っているものもあるかもしれません。
藩校の他に郷校・私塾・寺子屋がありますが、文献によっては、藩校以外は全て郷校に
いれているものもあります。下記のように書かれてあるものもあります。
郷校とは、
     藩校の分校
     藩による庶民の学校
     庶民のための学校
今回は藩校と現在の学校に絞りましたので、あいまいな事は載せませんでした。

藩校については、このブログでも2009年に書きました、また藩校サミットについても
2010年から載せています。
藩校サミットも今年で19回、11月に開かれます。
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藩校がそのまま現在の学校へと移行したわけではありません。明治になって、政府の
廃藩置県により藩は全て消滅しました、藩校も同じですその後その場所にまたは同じ
名前の学校が開校しましたそれが現在の学校です。
まだほかにもあるやもしれません、ご存じでしたらお教えください。また、間違い等が
ありましたらお教えください。


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資料のベースになっているのは、吉川弘文館の「近世藩制・藩校大辞典」です。
次は郷校についても載せたいと思いますが、各藩の江戸の藩校についても調べて
見たいと思います。
ただ歳のせいにはしたくありませんが、根気なのか、気力なのか続かないのです、
やっている時間よりか、手を休めている時間のほうが、長いので、進行のスピード
は亀ではなくカタツムリです、自分自身で歯がゆくなります。




日本城郭協会の「お城EXPO2022が始まります。


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お城EXPO2022

パシフイコ横浜




自分が入会したのは、昭和34~35年頃だったので、今から60年以上前の事で、
現理事長の小和田氏はまだ学生で、城の見学会のレジュメをガリ版を使って
書いておられました。


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石垣山一夜城の今昔 [城・館・チャシ・グスク]

 2月の中頃ワクチンの三回目の接種に行きました。
 以前にもお話したように、2年前より在宅酸素療法をしていますすが、最近は筋力が
落ち、10mを歩くことが、苦しくて医者に行く以外は外に出ていません、それで、この
ワクチン接種にも倅に車で連れていってもらっています。

 接種の帰り倅が行きたい所があると言って町田に行きました、町田は十数年前まで
住んでいた街、一時期は町田地方史研究会の役員もやっていました。

 行った所は「歴史美術館」です、最近オープンしたようで知りませんでした。
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展示品は165点で、下が展示目録の一部です。
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 パンフにあるように、1~2階は安土城の店主の最上階とその下の階の復元?だ
そうですで、実物大と書いてありますが、・・・。
この店主は写真撮影OKですが、3階の古文書等、4階の刀剣や甲冑、5階の茶道具等は
撮影禁止なので、下の写真は1~2階のものです。
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入館者は、我々2人だけ、公立でないので、心配です。


 2月25日の金曜日倅が小田原に寿司食いに行こうと言うので、2年振りの遠出でした、
着いてから解ったのですが、南曲輪の下に駐車場ができていました。
この駐車場西高台が「ヨロイヅカファーム」です。
 現在石垣山一夜城歴史公園となってます。

 残念ですが、歴史公園とは?、近代的な公園です。
 と言うのは整備され過ぎています。59年前から新発見が見当たらず新しく展望台
まで作り城跡が破壊されています。

 安土城は文化庁の「文化遺産」を壊してはならぬの一言で、残っていますが、
ここは完全に破壊されています。小田原城と同じで、現在の小田原城は江戸時代の
もので、後北条の本丸は現在古城公園となっている八幡山です。
では59年前の石垣山一夜城です。
その時の城紀行です。
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自分は文学青年でもないのに、・・・。下記の句が書かれている。
"草深き古城をそよぐ野分哉"
"虫の音に偲ぶ古城か苔の色”
この一夜城に行ったのは、1963年10月6日小田原城の後の攻略でした、当時は
城を訪れる人などいません、この日は日曜日でしたが、自分ひとりでした。
下が当時の写真です。
城入口024.JPG城入口026.JPG
城入口027.JPG石垣山入り口028.JPG


















                                              
                                              
                                              
                                              
                                              
                                              
石垣山035.JPG本丸跡030.JPG
曲輪跡031.JPG石垣山碑029.JPG                        
                                              
                        
                                              
                                              
                                              
                                              
                       
                                              
                                              
                                              
                                              
                                              
                                              
                                              
                                              
                                              
                                              
                                              
                                              
                                             
                                              
                                              
                                                
                                               
                                                                                                                                       
城入口025.JPG望む小田原方面032.JPG         
                                              
                                              
                                              
                                              
          
                                              
                                              
                                              
                                              
          
                                              
                                              
                                               
                                              
望む小田原方面034.JPG望む早川から小田原033.JPG


  

これが59年前の一夜城です、下が59年後つまり今の歴史公園です。
今は歴史公園ですが、59年前は史跡でした、何故公園にしたり、展望台を作ったりして、
史跡を破壊しているのでは?。




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 あまりに綺麗に整備されているので、古城跡のイメージが・・・・。


この後、早川港の魚市場食堂に食事にいったですが、ここは午後5時で終わるため、
時間がなく落ち着いての食事は出来ませんでした。
下がその時の写真ですが、本当に写真を撮る時間もありませんでした。
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載せた写真のうち59年前の写真以外は、すべて倅が撮ったものです、残念ながら、
歩くこともままならない身体なので、写真の説明ができません。



 2月からはじめたののに、もう4ケ月もたっているのに・・・。
下の写真が半年振りに遊びに来てくれた、ひ孫です。
コロナ以降は孫ともひ孫とも会う機会が少なくなりました。
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6月の初めもう一人の孫が2人のひ孫を連れてきてくれるので、楽しみです。
一緒に映映っているのが、自分と家内ですが、二人併せると175才を超えています。


下が現在取り組んでいる「藩校」の一部です、年内にはと思っています。
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幸橋御門 [城・館・チャシ・グスク]

 長いご無沙汰、…今回は藩校について書く予定でしたが、資料がどこかに紛れ、
まだ探しきれずにいます、それで、一昨年江戸城の踏査を始めて「品川台場」「
御殿山下台場」「芝口御門」「高輪大木戸」については書きましたが、幸橋門と
浜御殿についてはまだ書いていなかったので、今日は幸橋御門についてです。



 その前に潅水装置についてのお話を。
 昨年一年間使ってみて、不具合は湿度センサーが酷いときには一週間もたない
ことです。
 下が現在使っている装置です。
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 下がその湿度センサーです。
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左が未使用で右が使えなくなったものです、二本足の片側から電気を流し、その
二本足の間の抵抗値を測定し、この電圧をスケーリングし湿度として表示し、その
値をメーターリレーで判定します。
 何故基板にプリントされたハターンがはがれるかというとメッキの原理です、
それで、抵抗(レジスター)ではなく容量(キャバシティ)での計測と思いましたが、
キャパのセンサーはレジスターは1-5Vの出力に対して0-1Vで出力差が小さくて、
大雑把な計測になるので、オペアンフを作りましたが、うまくいきませんので、
その時作ったオペアンプの図面です。以前作っていたオペアンフはリニICは741
でしたが、このICだと±15Vの電源が必要だったので、今回は片電源のものにした
のとゲインを可変式にしたのですが、うまくいきませんでした。
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それで、ン回はやめましたが、後日チャレンジします。

今回は、下記のように、センサーを改造しました。
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二つあるのは、表と裏です、これはセンサーの両面4ケ所に2mmの銅の丸棒を
ハンダ付けしたものです、これだと7月に交換して現在まだ使えます。

 何故 これでは駄目かと言うと、センサーが壊れた場合、水位センサーが検知
するまでの間ポンプが廻りっぱなしになり約40リッターの水を流失してしまいます、
それと、湿度センサーのトラブルを検知しポンプを止め異常を知らせるために、
シーケンサー制御にするため3号機を今年の初めに作りはじめましたが、以前だったら
1-2日で作れるものがいまだに下記の状態です。
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今の物と違うのは、スケーリングメーターリレーを2ケにしたのと、潅水時間の
タイマーをアナログからデジタルに変えたのとセンサーの耐久時間を知るため
のタイマー(999日計測可)と電子ブザーです、そして、ランプはすべて緑と赤の
表示のできる、LEDです。
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裏からみたところ。

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ケースの中ですが、これに、基板用リレーが10ケほどつきます。下図は今回の配線図
です、コントロールするソフトはまだ作っていません。
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写真にはありませんが、基板用リレーを10ケつかいます、それはシーケンサーの
I/Oを減らしコストを下げました。

 これも道楽?いやボケ防止?・・・。














四年前江戸城踏査で始めた下図が廻ったところです。
全体図.jpg
このなかで、浜離宮と幸橋は書いていませんでしたので、今回は幸橋を
書きます。


幸橋御門跡

別名 御成門
所在地 東京都港区西新橋1-2-9
遺構 石垣の一部、説明板
築造 寛永13(1636)年
撤去 明治6(1873)年
 幸橋門は将軍が徳川家菩提寺の一つ芝増上寺の参拝のため通門だったので
御成門とも言われていました。
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上図がその位置です、右下黒指さしが幸橋で、左端中央の指さしが増上寺です。
 三十六見附の一つで汐留川と外濠川の角にあります。
下は幸橋御門の絵図です。

Scan-2a.jpg
上は表紙です、この中に載っている幸橋が下図です。
Scan-75a.jpg
下の写真は明治4年に横山松三郎氏が旧江戸城を撮影したものです。
1-12幸橋門.jpg
下は日本城郭協会の初代会長の井上氏の三十六見附図のものです。
Scan-34.jpg
この絵図゛で左が幸橋で右、外濠川の奥に見えるのが、山下橋です。

火事と喧嘩は江戸の華と言われていたように、お城も町も火事、地震、台風、
大雨などにより、焼失、崩壊、などにより、何度も建て替えられています。
自分が調べただけで、こんなに(下表)あります。
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 以前ビル建設の際石垣が見つかり幸橋の一部と騒がれましたが、これは
汐留川の護岸の一部で、現在はほとんどが、埋められています。

絵図だと正確な位置が地図で見て下さい。
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上は絵図を地図化したものです、下は現在の地図です。
どちらも→印部が幸橋で、汐留川は道路の下で外濠川は電車の線路の下です。

石垣の見つかったのは下図左側の丸印の所です。
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右下のまる印が幸橋跡です、みての通り橋とかなり離れています、なので、
石垣の場所は幸橋跡ではなく護岸(汐留川の石ではないかとおもわれます。

下の写真がビルの建築時に見つかった石です。
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IMG_6711.JPG幸橋門石垣.jpg

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DSCF4190.JPG 新幸橋碑.jpg                        
                                           
                                           
                                           
                                           
                                        
                                           
                                           
                                           
                                           
                                          
                                          
                                          
                                          
                                           
                                           
                                        
                                           
                                             
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        






















                                           
                                           
                                            
                                            
                                            
                                            
                                            

写真右下の石標の道路対面が橋跡です。


 次回は藩校についてですが、数が多いので、分けてのせます。


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城と写真 [城・館・チャシ・グスク]

 自分が写真に興味を持ったのは、昭和25年のときでした、当時はカメラなんて
個人での所有は皆無に近かったとおもいます,当時はおもちゃのカメラで、
一コマ8mm角の12枚撮りでした。35mmの一眼レフを初めて買ったのはたしか
昭和34~5年ころ、価格はサラリーの2.5ケ月分くらいだったと思います、写真家でもないのに、
望遠、広角の交換レンズ、当時はズームはありませんでした、
それと引き伸ばし機とエスカレートしましたが、
現像液、定着液、印画紙は日本橋の卸問屋まで買いにいかなければ入手出来ません
でした。
 そこに、城に興味を持ったので・・・。
 フィルムでの写真は1963年~2004年までの41年間、デジタルの写真は2001年~
現在までのたった19年です。
下の標はデジタル写真の訪城記録です、赤丸印の城はデジタルとフィルムの両方あります。
デジタル写真.jpg

 この写真と城がマッチして今に至りました。


城に興味をもって61年、1959(昭和27)年胃潰瘍で4カ月入院、退院後鎌倉の伯父の所で
静養している時、従兄が退屈だろうと買ってきてくれた本「徳川家康」全23巻のうち発行
されていた、19巻(20~23は未発行)を一週間で読破しました。

 この本のなかで、城の名はでてきたので、何となく行ってみたいと思っていましたが、・・・。
 仕事に復帰し最初に与えられた仕事はメロンの潅水装置(これが現在拙宅の潅水装置の原点)
メロンの潅水は4時間毎です、半世紀以上前のことです、当時今みたいに電子式のタイマーは
ありません、メカ式のタイマーのクオリティーは低く、電磁弁も信頼性に?でした。
だから自分的には失敗だったと思います、給水につていも塩ビのパイプニノズルをつけ
散水しますが、水源から遠い所は散水力が弱く、もう少し時間がほしかった。
下がその時の写真です。
4-23-2010_013.JPG
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 メロンの現場は磐田と言う所でしたが、そこには旅館がなく浜松駅近くのビジネス旅館に
泊り、そこからの通いでした。
 当時はビルなど高い建物がなかったためか、旅館の屋上(3階建て)から浜松城が朝日を受けて
きれいだったので、城まで行きました、下がその時の写真です。
三の丸から天守09.JPG三の丸から天守010.JPG
白黒なので、その時の自分の気持ちは伝わりにくいのですが、下が城紀行(1)です。
Scan-1.jpg
Scan.jpg
当時は写真を撮った場所は三の丸跡で、ここには市営体育館で、付近にはアパートがあると
かいてあります。
この浜松城を見て、山岡荘八の「徳川家康」を読んだ後だったので、城に取りつかれました。
下が現在の浜松城です、近くに高層建物が多く天守からおりた平地では天守を見ることが
できません。
 この旅館の屋上からみた城が頭に残り「お城」に対する思いが強くなりました。
P1020129.JPGP1020174.JPG
この写真が最近の写真です、近くは官庁街ですが、天守だけあれば「城」と思ってせめて
本丸だけでも城を残して欲しかったとおもいます。


 会社の休みはほとんど城へいきました。下が訪城記録の1ページです。
Scan.jpg
 翌年7/30~8/8の間それまで関東だけでしたが、東北・北海道を回りました。
下記は当時の日本城郭協会の機関誌(現在はありません)にその時のことを投稿しました。
Scan-2.jpg
Scan-3.jpg
 当時は城についての知識に乏しく、城の情報収集に本と研究会と国会図書館などで、
情報収集をしました。国会図書館は当時日曜・祭日は休みだったので、休暇はほとんど
国会図書館に使ってました、研究会の機関誌は情報源の一つだったので、当時7団体に
入ってましたし、書籍も1000冊をこえましたが、現在はほとんどが友人や図書館へ寄贈
しまして30冊くらいを残すのみです。下が蔵書一覧です。
Scan11.jpg
Scan12.jpg
Scan13.jpg
Scan14.jpg
Scan15.jpg
これは一部です、左の通し番号が1037ですが、現在は1096です。
城の団体は日本城郭協会、関西城郭研究会、東海古城研究会、西日本古城研究会、日本城郭
史学会など7団体に入っていました。
 当時はWebどころかパソコンもない時代、情報源が限られていました。

 1965(昭和40)年頃 人物往来社から「日本城郭全集」出版にあたり、原稿、資料、古図、
古写真、など城に関する資料の依頼がありました。
 この人物往来社「日本城郭全集」を発刊後倒産し、その後新人物往来社という新会社を
設立しこんどは「日本城郭体系」を出版しましたが、今度は2013年にこの会社も角川に吸収
されて、社名はなくなりました。
下が最初の「日本城郭全集 全16巻」です。
20201003SS00001_0000b.jpg20201003SS00004.jpg
左は外ケースがあったときのもので、今は外ケースがなしい右のものです。
下はその後新人物往来社から発刊された「日本城郭体系 全20巻」です。
20201003SS00002.jpg20201003SS00003.jpg
今回は「日本城郭全集」に掲載された1巻と2巻のものだけにします。
この2冊だけで25城45枚の写真が掲載されました。城についても3ツの城について書きましたが、
採用されたのは、1城だけでした。
下がその時城と掲載されている写真のページです。
掲載1.jpg
掲載2.jpg
この中で城11~城25までは10日間で周った城の写真なので、最初ベタ焼していいもの
だけを焼き増ししました、これはその時540枚の写真だったからです。
ベタ焼.jpg
この写真は弘前城の写真の一部です、裏には忘れないように被写体の名称も書きました。
それでは「日本城郭全集 第一巻」の掲載されてあるものです。
全集1-0.jpg
本の中表紙です。
右側が、掲載されてある本のページで、左側が写真です。



全集1-1.jpg
この八戸城については、城址碑がなければ城だと認識出来るものがないと書いてます。


全集1-2.jpg
全集1-3.jpg
全集1-4.jpg
一関城、ここで数ページあるが、小さな小山にある公園で、山頂の平な所が
本丸だと思われる、城に関する碑など何もない。


全集1-5.jpg
鍋倉城、夕方5時に盛岡を発してこの遠野に着いたのは午後9時だった、遅かったので、
心配になり、車掌さんに遠野に旅館ありますかねー、と聞いたら遠野は市ですよと言われた
ここは、城よりも遠野物語のほうが、有名か、城は駅から徒歩5分の小山、山城だ
標碑があるので、場所はわかるが遺構はない。と書いてある。


全集1-6.jpg
全集1-7.jpg
福岡城(九戸城)、ここも数ページにかかれている。



全集1-8.jpg
全集1-9.jpg
盛岡城です、ここは石垣が見事だ、近世の城郭だ、石川啄木の詩に出てくる
不来方(こずかた)のお城の・・・ で頭に残っていた城だ゛。


全集1-10.jpg
秋田城、佐竹氏が久保田城を造る前に作った城で、今は護国寺となっている、鳥居の横に
城址碑がある。と書いてある。


全集1-11.jpg
大館城、この城も柱城公園となっている、本丸跡の一角に公民館、二の丸跡、三の丸跡
にはモダンな市役所等の庁舎が建ち、城址碑一つない。と書いてある。


全集1-12.jpg
全集1-13.jpg
久保田城、ここも千秋公園となって整備はされている、佐竹氏の居城20万5千石の城
かなり広いので、滞在時間が2時間近く。と書いてあります。
5年くらい前テレビ朝日がこの古井戸の写真を使わせてほしいとの話があり、
OKしまして、しかし、ふざけた内容でした、下のテロップがある写真は、その時
放映された古井戸です。


全集1-14.jpg
桧山城、旅館からかなりあると言うんで、タクシーを呼び城入口まで、行き、ここで
待っててほしいといったら、その運転手さんついて行っていいか、と言われいいと言って
登ったが、山道が酷い、旅館の下駄できたので、きつかった。とあります。


全集1-15.jpg
全集1-16.jpg
本荘城、跡碑はあるのだが、ほとんどが夏草にかくれて探すのに時間がかかった。
とあります。


全集1-17.jpg
横手城、この町は小説「山と川のある町」のモデルだときいたが、確かに城は山の山頂
山の東から南に川が流れている。と書いてある。


これで一巻は終わりです。これから下は第二巻です。
全集2-0.jpg
二巻の内表紙です。


全集2-1.jpg
巻頭の写真の一部に載ってました。松嶺城の櫓門です。


全集2-2.jpg
亀ヶ崎城(酒田城)、今は高校のグランドとなって遺構を探すのに骨が折れた、この城の
城主坂田氏よりも、本間氏のほうが有名で、「本間様にはおよびもないが、せめてなりたや
殿様に」とうたわれたくらい、本間美術館には上杉氏、酒田市の遺品はあるが、城についての
資料はない。と書いてあります。


全集2-3.jpg
全集2-4.jpg
全集2-5.jpg
寒河江城、この城は数ページに書かれてますが、この寒河江については、文も絵図も
写真も全て自分が書いたり撮ったりしたものです、何故資料の少ない中世の城をと
思われますが、他の城についても書きましたが、ボツになりました。当時市の教育委員会、
郷土史家の先生、高校の校長をはじめ多くの先生方にお世話になりました。


全集2-6.jpg
全集2-7.jpg
新庄城、最上公園となっているが場所を示す標碑がないので、この本の城図でも
解るように城図にすら曲輪の名前がない。


全集2-8.jpg
鶴岡城、主要な碑はあるが、藩校致道館が博物館となっているが、資料はないので、
よくわからない。と書いてあります。


全集2-9.jpg
松嶺城、巻頭の写真の内側から撮った写真です、砂越駅からバスで40分、今は
松嶺高校となっています、下の写真は校舎です。


全集2-10.jpg
全集2-11.jpg
米沢城、この城は今回の東北・北海道のスタートの地、昨夜寝台が取れず、3等から
2等に変えた2等は座席を倒せるので、寝ることができた、上杉の居城だった城としては、
ちょっとさびしい。とかいてある、当時は今のグリーン車を2等といっていた。




全集2-12.jpg
石巻城、現在本丸跡は鹿島神社となってわずかに土塁が残っているのみ、城址碑かせなければ
城跡とはわからない。と書いてむあります。



全集2-13.jpg
全集2-14.jpg
白石城、今は公園となり厩門は延命寺の山門となり、茶室はあちらこちらに移動
させられて、崩れかけているそして民家の物置になっている。と書いてある。


全集2-15.jpg
全集2-16.jpg
岩切城(高森城)、液で聞いたら歩いてだと片道40分かかるというのでタクシーで
いくが、運ちゃんの話だと登り口からの両側の桜並木、その時期はかなりにぎあう
そうだ。


全集2-17.jpg
全集2-18.jpg
白河城、この城は翌年行ったので、会津若松、二本松、三春、棚倉、白河と周った
ときのもので、写真はこの時からカラーを使った、当時は石垣だけで、建物はなかった。


全集2-19.jpg
平城、磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つとうたわれた城も石垣、堀の一部を残す
のみだ、城の復元派と反対派がもめてるようだ、自分もそのトラブルに巻き込まれそうに
なり、本丸に入ることができなかった。と書いてあります、米沢から始まったこの紀行
この平が最後です。


全集2-20.jpg
棚倉城、ここも翌年行った城です、三春からこの棚倉までの交通は軌道(専用道路)の
国鉄バスです、運賃を払うときにお金を落としたことに気が付いたので、ここでEND
なんとか小銭で帰ることがてけきた。とかいてある。


全集2-21.jpg
相馬中村城、城内には、相馬神社、中村神社があり、旅館のご主人に案内してもらったが、
ご主人相馬神社の祭馬校祭の委員をしているようで、城よりも馬のほうに力が入っていた
ようで、城については聞けなかった。とあります。


全集2-22.jpg
三春城、ほとんど遺構がない、幕末あった城で、戊辰戦争の時は、東北で唯一
官軍へ寝返った藩として、まわりからは三春からは嫁を取るなまたは、三春には
嫁にだすなと言われていたので、何故遺構がないのか。と書いてあります。


 これで、1~2巻の写真は終わりです、このたくさんの写真、の処分を考えなければ
いけない時期にきているようです。
 
 歳をとると根気がなくなるのか、進行の時間に自分でもいやになります。ここまで
編集するのに、4ケ月以上かかってしまいました。それで、次の予定は自信がありません。
 家族からはやめろと言われてます。
 

 では、・・・・・。

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潅水装置のその後 [城・館・チャシ・グスク]

 相変わらずのご無沙汰です。
 3月以降外にでたのは3回です、1回は眼科での視野検査と眼底写真の検査で、2回目は
3月には肺のCT検査、5月に肺機能検査の予定がホームステイのため7月の初めに
検査して、そして次回ぱ下記の検査、
Scan-3.jpg
です。
 それから「在宅酸素療法」を考えたほうが良いとも言われました。
 これで、ますます外出の機会が少なくなります。

下は日本城郭協会の「お城EXPO」の出張だそうです。
昨年までは横浜のパシフィック」でやっていたのて゜すか゜、
Scan.jpg
Scan-1.jpg
自分がこの日本城郭協会に入ったのは50年以上前のことです。
 自分が入ったころは、まだ城に興味を示す人が少なかったので、会員は60人くらい
でした、当時、今の理事長の小和田氏は学生で協会の学生部として活躍されていて
レジュメは小和田氏や藤井氏がわら半紙にガリ版印刷のものでした。
 現在発行していませんが当時は機関誌を発行していましたし、会報
も発行していました、当時は資料が少なかったので7ツの城郭団体に入り、
情報を集めていました。それも最近の発掘調査によりかなり変わってきています。
城郭の話をするとまた行きたくなるので、・・・。
 城郭等の書籍、資料など700冊弱を図書館に寄贈しまして、現在は日本城郭全集全16巻
と他20冊くらいです。
何故これらを寄贈しなかったかは以前にも書きましたように、自分が提供した写真が
掲載されそこにフィルムNoを書き込んであるからです。
城の話になると長くなるので、またの時。



それからこれは潅水装置の話です。
この装置も使い始めて数か月になりますが、かなりの不具合が発生しています。
IMG_6881_0000.JPG
上が給水していないときのものです。
IMG_6884_0000.JPG
中央で赤く光っているのは給水しているときのものです、給水している
時は右斜め下のメーターの数字を見てください、上の数字は電圧でポンプが
回ると0.05Vの電圧降下が見られます、無碍の数字は電流でポンプが回っていても
0.07~0.13Aです。

以前部品はほとんど中国製とかきました、もちろん購入前にはそれらの仕様を確認
し購入するのですが、仕様と違っているものや、クオリティーの悪さが多いです。
例えばポンプです、必要なのは吐出量と、揚程力です、下はポンフの写真です。
1号機は灯油の電動ポンプをつかいましたが、今回は下図のポンプにしたのですが、
IMG_6892.JPG
一番左は実験的に購入したのですが、左から2番目は吐出量2L/M、揚程3mと
ありましたが、実際は0.5L/M、揚程0.3mでしたので次に左から3番目のポンプを
購入しました、これも仕様の1/10でした、それでこのポンプのレビューを書きました。
それが下です。
Scan-4.jpg
これもレビューに書いたように仕様を満たしていません、それで今回購入した
のが一番右のボンプです。このポンプはまだ使っていません、何故ならポンプが
変わる毎にポンプの電流も変わりますそのたびごとに電源も変えないといけません。
それで今回購入したスィッチングパワーサプライが下図です。
IMG_6897.JPG
一番左は12V2Aで順番はポンプと同じです、2番目は24V2A、三番目は24V5Aで
今度購入したのが、一番右の24V10Aです、最初から容量の大きなものを買って
おけばよかったのですが、ケチってかえって高くつきましたが、それでも国産の
オムロンのものですとこの4台の合計の2.5倍の価格なので、これでも安いと
思います。自分の趣味でやっているので、品質はどうでもいいという感じ

それで今上ノケースにこの電源をいれるため盤内はごちゃごちゃな配線に
なってしまいました。
これらの部品中国からの輸入なので、注文してから商品が届くまて゛約1ケ月
かかりますので、トラブルのたびに部品の購入に時間がかかり設計を始めた
昨年の8月から1年になるのに、いまだ正常運転ができないでいます。
このほかに、肝心の湿度せんさーがダメになってしまいました。
下記の写真がためになったセンサーです。
IMG_6895.JPG
一番右のセンサーは未使用ですが、左の3ケはエポキシ樹脂にプリントしてある
土と接触するセンサー部がなくなり計測出来なくなります。
計測は二股の間の抵抗値を測っています、この接触部の抵抗値が
無限大つまり乾燥状態なので、ホンプが水を供給しつづけます。
それでこのセンサーも10ケばかり購入しましたが、これもみんな中国産です、
しかしこれではランニングコストが高くなるので、考えました、ここで、自分の
バカさに気が付きました、2極間に電流を流せばメッキの原理と同じで片側の
極の触媒はもう片側に飛びますが、液の中なら飛びますが、土壌の中では
飛びませんので、剥がれてしまいます。
レジスターだと長期の使用は難しいので、キャパシティーでの計測はと考え
調べてたらありました、価格はレジスターよりかなり高くなりますが、購入
してみました。
その前にセンサーのレビューが下です。
20200715SS00006.jpg
ポンプとセンサーについてメーカーからの回答はありません。

何故湿度センサーにこだわるかと言うと、タイマーでの潅水ですと、土壌の乾燥度
に関係なく時間になると潅水するので土壌の乾湿に関係ないため湿度センサーによる
潅水にしたほうが、植物のためにはベターだと思いまして、湿度センサーでの給水に
しました。
下は各メーカーの湿度センサーです。
IMG_6899.JPG
左の3ケはレジスターですが、右のものはキャパシティです、これは抵抗値のものより
感度が鈍く変化値が1Vくらいなので、レジスターは変化値が4Vと比べ小さいので、増幅
用のオペアンプを作らなければならないので、実用にはまだ時間がかかります。

1号機の二の舞をと思い今回はデジタルパネルメーターをつけて技術的なデーターを
とりました、これで不具合が何かもわかります、
IMG_6885_0000.JPG
中央上のメーターは温度計です、土壌の温度です表示は25.4℃です、その下のメーターは
二段で上が電圧計で、DC24.6Vで下段はポンプの駆動電流でこの数字はDC0.07A
です。公称2.8Aなので負荷がかかっているのに低過ぎます。
右のメーターはデジタルスケーリングメーターリレーで湿度センサーの
出力のアナログ電圧をデジタルの湿度に近似値変換しています、この数字
土壌の湿度で78%を表示しています、この湿度が40%を切ると表示色が赤色
に変わり、メーターリレーが働きポンプが駆動しますが、レベルスィッチに
より、タンクの水位レベルがさがれば、レベルランプが緑から赤に変わり、
ポンプが駆動しません、将来は電子ブザーをつける予定です。






現在はほとんど出かけることがないため、実験室か研究室かのことく 、部品の
性能・耐久性を実験しているようです。

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大奥のスキャンダル 1 [城・館・チャシ・グスク]

 長い間のご無沙汰でした。
 今、コロナの流行で3月の初めから、家からでていません。本当は2月の初めから出て
いませんが、3月の初めに胸のCT検査の予約をしていたので、病院にいったのが、最後
でした、これは自分が肺気腫の持病を持っているため、年に1回するように言われている
からです。
 自分がコロナの陽性になったら多分駄目でしょう。私も家内も歳(二人で173才)なので、
娘や倅、孫までが、色々気を遣ってくれます、買い物は娘か倅がしてくれるので、外の様子は
テレビでの情報しかわかりません。

 2月の初めに孫がひ孫を連れて遊びに来てくれました、今回で2回目ですが、最初のときは
まだハイハイもできなかったのに、1年ぶり、言葉も少し喋れるようになってました。
下がその時の写真です。
IMG_6809.JPGIMG_6835.JPG
IMG_6869.JPGIMG_6872.JPG

もう一人の孫にも昨夏、ひ孫が生まれましたが、まだ小さいので行けないと言って
ました。

私事の話が長くなりましたが、娘からは外出しないよう強く言われています
ので、江戸城の踏査に行くことができず、今回は大奥のスキャンダルについて
江戸城資料の中から抜粋してみました。
1.絵島生島事件 (天英院Vs月光院)
2.感応寺集団女犯事件
3.延命院事件
4.於江の方Vs春日局
5.天璋院Vs皇女和宮
6.実成院Vs滝山
7.大老堀田Vs将軍綱吉Vs正室信子
8.おてや焼死事件
このほかにもあるかもしれませんし、また、上記よりももっとスキャンダラスな
事件もあるかもしれませんが、自分の知りえた知識でのピックアップなので、
また、スキャンダラスな話には尾ひれがつきますので、史実と異なる資料もありますので。
また、8については、スキャンダルではなく悲劇かもしれません。


今回は1.の「絵島生島事件」を取り上げてみました、この事件はほとんどの方が
ご存じのことだと思います。

 この大奥ができたのは、3代将軍家光の時、春日局によって作られました。
将軍以外の男性禁止の場所でした。本丸御殿は大きく分けて表御殿、中奥御殿、
そして大奥御殿です。

表御殿
   今でいえば各省庁のような場所で、諸役人の執務や将軍の謁見の場所
中奥御殿
    ここは、将軍の住まいで、ここは小姓しかいない、男性の世界です。
大奥御殿
    ここはご存じのように、男性は将軍だけしか入れません。

以前、江戸城内での抜刀はたとえ三寸でも、切腹、お家断絶だと言われていたのに、
刃傷事件がかなりありました、それを載せましたが、男性の場合は遺恨、武士の
面子がほとんどでしたが、大奥は女性だけです、なので、男性とはちょっと違って
嫉妬がほとんどでした。

 絵島生島事件は事件としては門限に遅れた絵島を規則を破って門内に入れた
月光院なのに罪は絵島以下の女中が被害にあったことで、事件としては些細な
ことです。

 江戸時代になってからは、跡取りがいなければ、御家断絶です、下が将軍の
正室、側室、や子供の数です。
将軍の奥方.jpg
この表を見てお分かりのように、正室の子は家光だけです。後は継室・側室か
御三家、御三卿からの将軍です。
正室、継室、側室で二桁の子供がいたのは、家康、家斉、慶喜の三人ですが、
ほとんどが早世で、
正室はゼロ
継室は於江の方の家光の一人
側室でも秀忠、家綱、家継、家重、家治、家慶、家定の七人で、
後の七人は正筋ではありませんでした。
6代将軍の側室於喜世の方(月光院)(家継の生母)に仕えるお年寄りが絵島です。
下の家系図は3代将軍家光から7代将軍家継までの系図です。
Scan.jpg
この図の通り3代家光から7代家継までは家光の血筋です。ここで宗家の筋は
きれます。
 徳川幕府の不安定な時期を別にして、三代将軍からは正室は公家・宮家・皇家
から選んでいます、家定の時も篤姫は継室ですが、それでも近衛家の養女となり、
近衛敬子として輿入れしています。しかし三代目以降正室からの子供が将軍に
なっていません、また、側室からも子供ができなかった将軍もいます。

 では、ここからが本題です、この時の将軍は家宣ですが、上の系図を見て
ください、8人の子供のうち3人が早世です、長男家綱が家督を継ぎますが子供か
出来なかったので、四男の綱吉が五代将軍になります。
 綱吉には徳松が生まれましたが、早世だったので、家宣が六代将軍になります。
Scan-1.jpg
上記が家宣の正・側室の系図です。

家宣は家光の三男綱重(甲府徳川祖)の嫡男で甲府徳川の二代目でした、甲府徳川と
言っても江戸城西の丸での生活でした。
 もし、家綱、綱吉に子供がいたら、甲府宰相と言われて、側室を持つこと
なく、正室煕子と過ごしたのではないでしょうか、天英院と月光院のバトルは
なかったかもしれません。
 何故かと言うと、家宣が将軍になって本丸に移ってからも、煕子との仲は良か
ったようです。
 長男が生まれてのは、煕子40歳のときでした、側室だったら20代までで、
30代になったら声がかからなくなります。

 余談ですが、先代綱吉、先々代家光は正室との仲は悪かったようです。

 家宣の生前は正室煕子(天英院)と側室於喜世(月光院)仲が悪かったわけ
てせはありませんでした、没後も仲が悪かったわけではありませんでした。
 家宣には7人の子供がいましたが、鍋松(家継)以外はすべて早世で、於喜世
だけが家継の生母となったので、しだいにクローズアップされ、大奥での
権力が集まってきます、家宣没後は大奥の実権は先代御台所より、将軍の
生母としてのふるまい、月光院に仕える御年寄絵島もその権力をほしいまま、
 これにはほかの御年寄も苦々しく思っていたでしょうが、相手は将軍の
生母、そして側用人、間部詮房と懇意だったことも一因だったとおもいます。

 今までは事件の前の話でした、ここから核心に入っていきます。
事件が起きたのは家宣の没後2年たった正徳4(1714)年、7代将軍家継の生母、
月光院に仕える御年寄の絵島は1月12日月光院の名代として、上野・寛永寺と
芝・増上寺に、徳川家の墓参に出向きました、これ自体は、御台所、や将軍の
生母の代参として将軍の菩提樹にお参りに行くのは慣例であり、問題はありま
せん。
 問題は帰りに木挽町の芝居小屋・山村座に立ち寄り、芝居見物したことでした。
もちろん代参の途中で芝居見物など、御法度です、主演役者は生島新五郎、幕間に
この新五郎から挨拶を受けた絵島は上機嫌、芝居が終わった後、新五郎を招いて
茶屋で大宴会を催します、酔って時間を忘れてしまったのが、絵島が江戸城の
七つ口に帰ってきたときは門限の午後四時を過ぎていました。同行していた、御
年寄の宮地は「だれにたいしてモノ申しておる!」と高圧的に「門を通せ」と言い
はり、「規則は規則でございまして」と押し問答。
 騒ぎは大きくなってなり、城内に知れ渡ってしまった。
 事件は評定所で審議され、町奉行、大目付によって調べられ、その結果、幕府は
新五郎は三宅島へ遠島、山村座座元五代目山村長大夫も伊豆大島に遠島山村座は廃座、
絵島も遠島を申し渡されるが、月光院の嘆願が功が奏して信州・高遠藩・内藤清枚に
御預けとなり、生涯解けることなく、絵島は二度と江戸へもどれなかった。
 絵島の異母兄の白井勝昌は切腹ではなく斬首され、弟豊島常慶は追放となり、
取り巻きとして利権を食っていた大奥御殿医の奥山交竹院とその弟の水戸藩士、幕府
呉服師の後藤とその手代、そのほか材木商も遠島や追放と多数の連座者がでました、
処罰されたのは50人以上という
大事件になりました。



 余談ですが、長野県伊那市高遠町歴史博物館に絵島が幽閉されていた「絵島
囲い屋敷」が復元されています。



 家宣没後、家宣の遺言により、天英院(煕子)は本丸大奥に留まり、家継の嫡母
としての後見となりました。
 
本当に仲が悪かったのでしょうか、取り巻きが権力を持ちたいための騒ぎでは?
と言うのは、家継が病気で危篤状態となったとき、嘆き悲しんでいる月光院を
励ましたと言われていますし、家継の八十宮降嫁のときは、月光院とともに
力を入れています。

 8代将軍吉宗を迎えるのにも尽力したといわれ、吉宗に正室が不在だった
こともあり、将軍家女性筆頭として、その後も権勢を振るったと言われて
います。
 
 月光院は家継の没後は西の丸へ移り余生を過ごしたとあります。

 この事件についても、後に尾ひれをつけて面白可笑しく書かれている本など
がありますが、権力争いを絵島生島事件に乗じ大きくした事件です。

 当時は将軍家のスキャンダルを正式には残していませんので、[新月][新月]家文書とか
[新月][新月]家日記などのほうが、史実に近いことが多いのですが、これらの文書は中々
日の目をみることがないので、ここに書いたことでの正確さは追及しないで
ください。ただし、間違っていることがありましたら、お教え下さいませ。

[ダイヤ][ダイヤ][ダイヤ]
 「徳川実記」や「江戸幕府日記」では亀松が次男になっていて、綱重は三男と
なっていますが、「徳川幕府系譜」では綱重は次男になっています。
 家宣の生母は身分の低い女だったため家臣・新見正信の養女として新見左近と
名乗っていました、その生母も早くに没したので、祖母順性院にそだてられました。
 このように、資料によってちがっているものがかなりあります。


 来月からブロバイダーがかわります、これで三度目です、ジャストネットから
ソネットらかわったのが、20年くらい前、これを機会に引退すべきか迷っています、
自分がパソコンを使い始めて40年以上になります、OSがまだベーシックのときです、
その後MS-DOS2.2,3.0,3.1,3.3A,B,Cとバージョンが変わり6.0で終わりそれからが
いまのWin3.0,3.1,3.3,95,89・・XP,7.0・・10へとかわってきました。
MS-DOSのときはマイクロソフト社の日本支社がなかったので、NECが日本語の
MS-Dosを販売していました。ソフトにしても、ワードプロセッサーは一太郎
これも3.0から6.0まででWinにかわりました、集計表はロータス1-2-3後に花子
そしてデターベースは桐でした。当時オフィスはありませんでした。
 この一太郎を作っていたのが、ジャストシステムです。
 自分はこの変化(進歩)についていけなくなりました。これも原因の一つか
もしれません。

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二台目の潅水装置 [城・館・チャシ・グスク]

 明けましておめでとう御座います。
 今年も宜しくお願いします。

 昨年は皆さまのところへ訪れる機会が少なく、江戸城の踏査も中断状態・・・。
 
 昨11月30日から3日間、倅が箱根、伊豆に連れていってくれたのですが、紅葉には
少し早かったようで、山は色づいていませんでした。下の写真はその時のものです。
IMG_6785.JPG
眼下は芦ノ湖で、その先が富士山ですが、山がもう少し色付けばもっとよかったの
ですが。

 5年前潅水装置を作り、このブログにも載せました。
 その時載せた写真が下記です。
実装表.JPG
IMG_4907.JPG
回路図B.jpg
回路図C.jpg
 でしたが、不具合がありましたので、それらをクリァするため、2台目の潅水装置を
作りはじめました。

何が不具合だったのかと言うと、

1. ウィークリータイマーでの制御、これは、毎日一定の時間に潅水します、これだと
  雨天、曇天に関係なく潅水しますので、過給水してしまいます。
2. ソーラーパネルの起電力が、充電乾電池の容量と同じだったので、雨天、曇天が
  続くと充電不足となり、ポンプの駆動ができない。
3. 給水位置が同じ場所のためその場所の土を掘ってしまう。

などです、なぜ自動潅水しょうとかんがえたのは、せっかく何十年も育てた盆栽を
枯らしてしまったからです、それまでは2~3日の旅行だったので、2Lのペットボトル
と市販の「水やり当番」で問題無かったののですが、一週間以上の旅行では無理でした。

何故ソーラーパネルに拘ったわけは漏電などのトラブルで100V電源を使うのを止めました。
それと最初から本格的なものを作り失敗したときのリスクが大きいので、まだテスト段階での
本格域な物の購入は危険と費用の面で次の様な仕様にしました。

 最初は簡易型でのものでしたが、湿度センサーによるON/OFF信号での潅水では、
湿度がどのくらいの時潅水するかがよくわからないので、センサーのアナログ出力を
スケーリングでパーセントに変換し潅水できるように、デジタルスケーリングメーターリレー
を使うことにしました。
 それが下図です。
IMG_6770_0000.JPG
IMG_6774.JPG
Scan.jpg
説明しますと、表示パネル図左からパイロットランプと電源SWです、そのすぐ右がウィーリー
タイマーです、機能的には前のオムロンのものが良かったのですが、これはホームセンターで
オムロンの1/10の価格で売っています。
ここまでがAC100Vラインです、ここから右はDC24VとDC5Vのラインです、将来太陽光発電
(ソーラーパネル)を使うためのモデル回路です。次の24Vと5Vの電源ランプです両方共LEDの
発光ダイオードです、つぎの右は上は2色のLEDでタンク(20L)のの通常は緑いろですが、水位
が下ると赤色に変わります、その下のLEDは赤色の点滅タイプでポンプが回っているときだけ
点滅します、トグルSWはスプリングリターン式でポンプのチェックにつかいます、下に押して
いるときのみ作動します。その右は上は土壌の温度を監視すめもので、将来はメーターリレーに
して、高温になったら散水を考えてのものです、下はポンプの仕様が解らないので、ポンプの
駆動時の電流値と電圧をチェックするためのもので、それによってはDC電源のW数を上げる
かもしれませんが、仕様が解れば不要になるかもしれませんが、中国製なので、311円です、
同じものを秋月電子で買えば約2倍です。一番右はデジタルスケーリングメーターリレーです、
本当は上下に2ケつける予定でしたが、ネット詐欺にあい、1ケになりました。



ネット詐欺は自己責任で自分が悪いのですが、その処置の対応では、自分が住んでいる地域の
警察署、自分の口座のある振込銀行、消費者センターは親切に対応してくれたのですが、詐欺
会社の口座三井住友銀行の東大阪支店、の電話に出た女性、上司にも取り次いでくれず、対応が
不愉快でした、おかしいのは会社の所在地は東京都台東区なのに、口座は東大阪支店、それと
自分が振り込んだ翌日に口座は凍結されましたので、警察では凍結されているかもしれない
ので、三井住友に受理番号を言って聞いてみなさい、とのアドバイスもいただいたのに、
その女性調べることもせず、無理ですと断られてしまった。
このメーター本当は1ケ32000するのでかず、それが、11000だったので中古品かもしれないと
思いつつ2ケ注文してしまいました。なので今回はグレードを下げて23973円のを1ケにしました。
それで今回は2ケの湿度センサーを切り替えてデーターを取ります。


 上の表示パネルの配置が上側に寄っているのは、タカチ電機のケースが以前のものが生産中止
となり高さが100しかなく、パネルメーターやサーキットプロテクター、タイマーなどの
高さがギリギリだったため中の配置をずらしたためです。

下の回路図は3電源の仕様と部品を安くするため、中国製にしたためです、3電源は全て
パイロットランプで表示しますので、ランプが消灯したらさの電源の故障かがわかります。
下が部品表の一部です、個数の欄の橙色で塗ってるのが中国製です。
Scan-2.jpg
ここで購入した中国製価格は国産の1/2~1/10ですが、取説・仕様書等が添付されて
いないので、品質については使ってみなければわかりません。
 使い方を間違ったり、配線を間違うと破損してしまうかもしれませんので、詳しくない
片へはお勧めできません。


 散水はボンプの吐出側に4ポート分岐菅で4回路に給水出来るようにして、その先に
ペットボトルを逆さにしてその口に100均で売っているジョーロの口からの給水します。
制御は上の回路図で書きましたが、メカの部分については、書いていませんので、下図
の通りです。
Scan-1.jpg
この図が今回のものです。
 ペットボトルホルダーは自転車用のものでこの絵ではペットボトルが逆さまですが、
この絵では逆さまにして、ジョーロの口をつけました。
前回のものは、2インチ塩ビのパイプに両端メクラ蓋で任意の位置にPT1/8のねじをたて
ワンタッチ継手をつけその先にウレタンホースで根元に給水していました。

 次はタイマー・リレーをシーケンサーにして、もっと使いやすいものにして、安定した潅水が
できれば、マイコン制御にしたら内部でコントロール出来るので、単なるデジタル表示器で
出来ますので、かなり性能もよく価格も安くなりますが、ソーラーパネルがもっと安く
なれば、なお安くなります。

現在コントロール部が完成したので、土壌と湿度のデーターどりをはじめました。
湿度はコンパレーターによってポンプをON/OFFするかウィークリータイマーよっての
ON/OFFですが、湿度が高いときはコンハレーターによってポンプは作動しません。
 

 今回はここまでですが、うまくいけば、改造します、
1. リレー、タイマーをシーケンサーに替える。
2. 水道管に電磁弁をつけ、水位センサーがONしたらタンクに給水する
3. 水位計のストロークを長くして上下限のセンザーにする。
4. 温度計をメーターリレーにして土の温度が高くなったら(鉢のため)散水して冷やす。

 ここまでは金額的にも負担は5万くらいで出来ますが゛、
全自動にするには、ソーラーパネル、鉛蓄電池、充電コントローラー、などが
必要です、金額は少し高くなりますが、完全全自動になりますのて、そこまで
持っていこうと思っています。
これは自分の趣味でやっていることなので、自分では解りませんが、根を詰めると
体に良くないと言われてますが、好きなことのためかつかれません。


下らんことを長々とかきまして、申し訳ありません。
今年も宜しくお願いします。

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江戸城の濠と川 [城・館・チャシ・グスク]

 長い間お休みをしました、傘寿をすぎてからは根気、気力、体調が整わず、実踏もストップして
しまい、それではと濠と川を調べ始めました。
 江戸城は太田道灌が築城し、徳川家康が入府した当時は、現在の本丸跡のみでした。
下図が当時の江戸でした。
Scan-1.jpg
 家康が入府当時は濠はなく、平川のみでした。現在の大手濠あたりが平川の河口でした。
その後は平川を利用して濠を造りましたが濠にも高低差をつけて流してました。
しかし、たくさんの川が流れている平川はたびたび氾濫しましたので、現在の水道橋から
柳橋までのバイパスを造りました、それが、神田川であり江戸城の外濠にもなっています。
 また、当時の川で谷端川、小石川、旧石神井川は江戸初期に無くなっているので、その資料は
少なく、本によっては、小石川という川はなかったとあります。
ただし旧石神井川は現在石神井川として王子を通り堀船で隅田川に流れています。
また、神田川(江戸川、平川、飯田川)水系の徳殿池(豊島区要町の粟島神社)からの
川は名前がわかりませんし、江古田の合流点の手前で無くなっているので、地下に
潜ったのか、?です。


では、江戸開府してからは下記図のように川がずいぶん増えています。
Scan.jpg
上図に載っていないのですが、下表は江戸城の濠と関連の川です。
Scan-2.jpg
川は交通の手段としても使われていました、それが河岸です、いまでも鎌倉河岸
などが残っていますが、当時は40~50くらい河岸がありました。


しかし、明治になってかなりの堀(川)が埋め立てられたか゛、地下に潜ったのか、
これは、当時の府知事が火事の多い東京を西洋のように、道路を広げ類焼を減らす
ために、埋められましたので、江戸時代の川は現在道路になっています。
また、その時府知事は道路に面した建物はレンガ造りを推奨しましたが、当時レンガ
は高価だったので、東京にもレンガ工場を造ったそうです。
 西洋に習ったのは車道・歩道を区分けして、整備したそうです。
最初に造られたその西洋風道路は銀座通りです、歩道がかなり広く作られています。

江戸時代、川端には柳がありました、今でも皇居の濠端に柳が残っています、昭和の歌にも
[るんるん]昔恋しい銀座の柳・・・」
[るんるん]柳碧める日銀座に燕が飛ぶ日・・・」
などがありました、今は道路になった柳並木ですが、明治以降は柳ではなく、ボプラ、楓、
紅葉、公孫樹、桜などに変わっているそうです。
下記は今でも残っている江戸城の柳です。
撮影は2007-9-20です。
IMG_1416.JPGIMG_1438.JPG
左は二重橋手前の桜田濠で、右は大手門手前の桔梗濠の柳です。

インフルエンザが広がってます、皆様お身体に気を付けご自愛くださいませ。
自分は肺気腫のため風邪をひくと肺炎になりやすいと医者に言われてますので、
先月に予防接種をすませました。


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芝口御門と城門 [城・館・チャシ・グスク]

 間隔が開きすぎて大変申し訳ありません、体調がすぐれないというより、歳なので
仕方がないのかもしれませんが、傘寿を過ぎてからは酷くなってきました。
 しかし今だに仕事の夢を毎日のようにみます、仕事を辞めてもう20年になろうと言う
のにです、体がついていけません、根気のなさ、記憶力の衰えなと精神的なものが、それ
と体力の衰えと、そろそろ限界かもしれません。

 なので、次の投稿は難しいかもしれません。

 前回三十六見附を書きましたので、今回は外郭の御門なのに三十六見附に入れなかった
見附「芝口御門」を載せます、この門は朝鮮からの外交使節団の来日に合わせ
て造営された門です。幕府の棟梁甲良家文書によれば、
「・・・六代将軍家宣公時代、宝永7(1710)年庚寅年に造営、御用掛棟梁甲良左衛門
享保9(1724)年正月晦御炎上其後御再建無之」とあります。
門は冠木門を入った右に渡櫓門とあります。
下は高野氏が描かれた芝口門です。
Scan.jpg

Scan-1.jpg
門跡には上図の絵図がありますが、ここに描かれてあるのは冠木門ですが、
屋根があります。
普通冠木門と言ったら屋根がありません、それで城門といったらどのような
門があるか。

石門
  虎口の左右を石で固めた形式の門です。
  現在会津若松城の天守台東側面に現存しています。
会津若松城の石門です。
IMG_4412.JPG20190415SS00004.png
DSCF2882.JPG
「静勝軒銘詩並序」に太田道灌が築造した江戸城は「凡そ三重なり、二十五の
石門ありて各々飛橋を掛く、懸崖千万屻なり」とありますがどのような門なのか
わかりません。

埋門(穴門)
     トンネル式の穴門で石塁の一部をくりぬいた形になっており外部からは
     その存在がわかりにくくなっています。
下が埋門です。
高島IMG_3887.JPG松代埋門9322.JPG
姫路IMG_5270.JPG
上左は高島城の駐車場からの入り口ですが、城古図には描かれてません。
上右は松代城ですが、これも古図にありれませんでした。
下は姫路城の山里曲輪の「る」の門です。

棟門・上土門(仕切門)  
      礎石の上に立てた二本柱に冠木を渡し、下部に蹴放しをわたして
      屋根組をしたもの。寺院の総門が同じ形式です。
二条南仕切門009.JPG二条天守台仕切門2431.JPG
大洲仕切門内側IMG_7683.JPG
上左は二条城の南仕切り門、右は同じく二条城の天守台仕切り門です。
下は大洲城の仕切門です。

四足門(四脚門)
      中世の城館の表門で二本の大柱の前後に四本の袖柱を立てて屋根は
      切妻か平唐破風造りになっています。
      中世の城館では、古河公方館、一乗谷朝倉氏居館にありました。
      近世の城館では大洲城の門にあります。
大洲四足門P8300162.JPG京都離宮四脚門.png
左は大洲城の四足門で、右は京都離宮の四脚門です。

ハ足門(八脚門)
      城館ではあまりみませんが、対馬の厳原城の客殿表門にあります。
      四脚門、八脚門は寺院の門に多く残ってますが、城では御殿などの
      表門に多くありました。
奈良法隆寺大門八脚門.png
奈良法隆寺の八脚門です。

高麗門
   二本の柱の上に切妻屋根をのせ主柱の後方に控柱を立て、主柱と控柱の上に
   棟行と直角に小屋根をのせたもので、門扉に潜り戸をつけたものが多い。
   枡形の一の門にこの高麗門が多いです。
   江戸城では大手門、外桜田門、田安門などほとんどの門に高麗門がありました、
   今はありませんが坂下門、半蔵門も枡形の一の門としてありました。
IMG_1142.JPGIMG_1409.JPG
左は田安門で右は大手門の高麗門です。

櫓門
  城門の両脇の石垣の上に多聞(渡櫓)を渡した二階門で、下方に入り口の
  門扉をもつもの、高麗門を一の門にこの門を二の門とした枡形を構成
  しています。
IMG_1144.JPGIMG_1411.JPG
左は田安渡櫓門、右は外桜田渡櫓門です。

薬医門(役居門)
   棟門の発達した門で門柱の内側に二本の控柱を立てて屋根は切妻造り
   です。
宇和島薬医門.JPG丸亀薬医門.JPG
大手門(現御香宮神社山門)33-16.jpg
上左は宇和島城の薬医門、右は丸亀城の薬医門です。
下は伏見桃山城の大手門(現御香宮神社門)です。

冠木門
   二本の柱の上部に冠木を組み込んだ質素な造りで屋根はありません。
   下がその冠木門です。
八王子DSCF1695.JPG新宮城冠木門.png
左は八王子城、右は新宮城の冠木門です。
 しかし芝口門の冠木門には屋根があります、それで城門を取り上げてみました。
冠木門は本来屋根をもたない門ですが、江戸城で冠木門があります、本丸口の
中雀門が冠木門です、多分この門を参考にしたかもしれません。下の写真が
明治初期の中進め門です。
7-5中雀門4.jpg
正面の門が高麗門ではなく冠木門です、この門の中は枡形で左は屋根だけ見えて
いるのが、書院出櫓で枡形正面は書院二重櫓と右横が捨間多聞です、右は
見えませんが書院渡櫓門でここをくぐると本丸表御殿の玄関です。

長屋門
   近世の武家屋敷の表門として、門の左右が長屋になって、門番の控え室
   や中間部屋が仕切られてあります。
下は長屋門です。
岩槻大手門015.JPG高崎三の丸東門027.JPG
左は岩槻城の大手門、右は高崎城三の丸東門です。

唐門
  唐破風を屋根の正面に配し腕木や肘木などに多く彫刻を施した門です。
二条唐門037.JPG二条唐門前広場019.JPG
二条城の唐門です。


 門の分類に用途や場所によってつけられた名、大手門、搦手門、鉄門など
ありますが、冠木門で屋根のある門が珍しいので門についてかきましたが、
自分が撮った写真をさがすのに時間がかかり過ぎました。探せばもっといい
写真があったとおもいますが・・・。


ここから本題の芝口御門です。
芝口門は六代将軍の時代に造られた門です、なので戦いのない時代です、防御の
門ではないのですが、絵図では家康時代の門と同じ形ですが、渡櫓からの右の櫓は
本当にあったのでしょうか、この門は朝鮮使節団の来日のために造られた門です。
下の絵図を見て下さい、汐留川上流の幸橋御門に枡形がありますが、この門は江戸
初期に造られた門です、その下流の土橋、難波橋には門がありませんが、木戸、番所
はあったかもしれません、その下の橋、門ができる前は新橋と呼ばれていましたが、
門が造られてから芝口橋と呼ばれてましたが、門が焼失してからは、新橋と呼ばれる
ようになりました。
 なので高野氏の絵図に違和感をかんじました。
 この門は14年間しかなかった門なので資料も少ないので、かなり錯綜しています。
 それで現在の御門跡が違う場所にあります、これついては跡地説明板にも書かれ
ています。
 ではその場所はれ゛の地図で見てください。
Scan-2.jpg
赤矢印が当時あった場所です、青矢印が現在の跡碑のある場所です。
薄いグリーンの東京高速道路の下が汐留川で、そこから上に伸びている
中央通りが江戸時代の三十間堀跡です。
別の地図でも赤丸矢印のところが御門跡ですが、同じようになって
います。しかし、この赤丸部のすぐ左上に金春屋敷跡というのがあのます。
Scan.jpg
下は江戸切り絵図です、この芝口橋の左上に金春屋敷があります。
これは江戸時代の絵図です、この絵図は芝口御門の焼失後に描かれた
ものなのです。
Scan-1.jpg
この門は焼失後は再建されていません。つまりそれほど城にとっては重要な門
ではなかったと思われます、この橋の上難波橋、その上の土橋に門がなかったのに
芝口門だけ立派な門を造ったのでしょうか、高野氏の門はどの門を真似てさ造った
のでしょうか。
 下の絵図を見てください、これはまだ門のあったときに描かれたものだと思われ
ます、少ない芝口御門の絵図です。櫓はありません。
Scan-2.jpg
Scan-3.jpg
上が芝口門ですが、高野氏の絵図と違っています、下の絵図を見てください
石垣の上に土塁があり、その上に塀があります。
「旧幕府引継書」「御触書寛保集成」などの資料には札ノ辻に芝口門があった
とか、芝口門の名があった場所が主でまた、港区立港郷土資料館、中央区立
京橋図書館の資料にも芝口御門についての門の規模、などについては書かれて
ませんが、また下図を見てください。
Scan-4.jpg
地図に門のあった場所、現在の碑のある場所については書かれてません。

あまり細かいことをかいたら、現在のものを信じていらっしゃる方の
夢を壊してしまいますので(以前唐津城は天守がなかったのにさもあった
ように描かれてある、とかいたら地元の方に嘘を書くなといわれました。)

下は現在の芝口御門跡です。
IMG_6731.JPGIMG_6726.JPG          




IMG_6728.JPGIMG_6727.JPG

IMG_6730.JPG
ここまでが、芝口御門の跡碑、説明板、絵図です。


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DSCF4195.JPGIMG_6717.JPG


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IMG_6724.JPG
                                         
芝口門跡の道路の反対側にある三十間堀跡です、前の道路は堀跡です、なので芝口門は
実際には濠の先ですが門の跡碑はこの道路の後ろにあります。


まだまだ調査が不十分なので、続行しますが、文献、資料など御存じの方はお教え
くださいませ。

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江戸城の三十六見附 [城・館・チャシ・グスク]

江戸城の見附(門)は三十六と言われてますが、実際には門の数は90位ありました。
 自分が調べてみて、現在72門あります、見附は枡形の門つまり高麗門と渡櫓門ですが、
この場合二つの門で1とかぞえます。

 下表は現在調べて解った門です。
本丸・二ノ丸・三の丸・三の丸帯曲輪・三の丸大名小路にあった門です。
門1.jpg

下表は西の丸・西の丸吹上・西の丸下・北の丸にあった門です。
門2.jpg

下表は外曲輪の門です。
門3.jpg

では何で三十六見附と言ったのか、はっきりしたことはわかりませんが、三十六と言う
言葉(数)は言いやすいからではないかと思われます。

下にあげたのは、三十六と言われているものです。
1. 富嶽三十六景ーーー実際には四十六景です
2. 三十六歌仙ーーーこれは三十六人です
3. 三十六計ーーー中国の兵法書
4. 江戸自慢三十六興ーーー江戸時代に書かれた書
5. 三十六人衆ーーー藤原一族の姫が36人の家臣に守られて落ち延びた、現在はお酒の名前に
6. みやぎ蔵王三十六景
7. 織田信長公三十六功臣
8. 四国三十六不動霊場
9. 東山三十六峰
10.関東三十六不動霊場
11.三十六童子
12.江戸三十六番所
13.南波一海(なんばかずみ)のアイドル三十六房
外国でも
エッフェル塔三十六景
など、あります。

 三十六と言うのはゴロとして考えてください。

下の表は古書などからピックアップしてみました。
見附一覧.jpg
1. 江戸城見附図
江戸城見附図表.png
江戸城見附図裏.png

2.江戸城図録ーーーこれは著者名も発行したところもわかりませんので中をちょろっと
江戸城図録表.png
江戸城図録中1.png
江戸城図録中2.png

3.江戸築城叢話
江戸建築叢話表.png
江戸建築叢話裏.png
この所は同じ著者名で出版されています。下図
江戸建築叢話新.png
自分はこの新しい叢話は見ていませんので、中身が同じかわかりません。

4.江戸城見附絵図
江戸城見附絵図表SN200003.png
江戸城見附絵図裏.png
これは日本城郭協会の初代会長の井上宗和氏が書かれたものです。

5.ウイキペディアーーー皆様ご存知のインターネット百科事典といわれているもので、
  執筆者名も出目もないので、資料としては、3級資料です。
6.7.8.はほぼ同じなので、これらが一般的に言われている三十六見附かもしれませんが、
見附とは交通の要所に見張り所とあります、18.18.は二ノ丸、本丸の中ですしまた、午後6時
を過ぎると門の中にはいれません、だから1.の見附と言われる26門が近いのかも知れません。


下の見附と濠の中で門は上記表のように沢山あるのて゜すか゜、これ以上書くとかえって見づらく
なってしまうので、書いてありません、また堀川にも名前があったのでしょうが、まだ調査中です。
見附と濠.jpg


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