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二台目の潅水装置 [城・館・チャシ・グスク]

 明けましておめでとう御座います。
 今年も宜しくお願いします。

 昨年は皆さまのところへ訪れる機会が少なく、江戸城の踏査も中断状態・・・。
 
 昨11月30日から3日間、倅が箱根、伊豆に連れていってくれたのですが、紅葉には
少し早かったようで、山は色づいていませんでした。下の写真はその時のものです。
IMG_6785.JPG
眼下は芦ノ湖で、その先が富士山ですが、山がもう少し色付けばもっとよかったの
ですが。

 5年前潅水装置を作り、このブログにも載せました。
 その時載せた写真が下記です。
実装表.JPG
IMG_4907.JPG
回路図B.jpg
回路図C.jpg
 でしたが、不具合がありましたので、それらをクリァするため、2台目の潅水装置を
作りはじめました。

何が不具合だったのかと言うと、

1. ウィークリータイマーでの制御、これは、毎日一定の時間に潅水します、これだと
  雨天、曇天に関係なく潅水しますので、過給水してしまいます。
2. ソーラーパネルの起電力が、充電乾電池の容量と同じだったので、雨天、曇天が
  続くと充電不足となり、ポンプの駆動ができない。
3. 給水位置が同じ場所のためその場所の土を掘ってしまう。

などです、なぜ自動潅水しょうとかんがえたのは、せっかく何十年も育てた盆栽を
枯らしてしまったからです、それまでは2~3日の旅行だったので、2Lのペットボトル
と市販の「水やり当番」で問題無かったののですが、一週間以上の旅行では無理でした。

何故ソーラーパネルに拘ったわけは漏電などのトラブルで100V電源を使うのを止めました。
それと最初から本格的なものを作り失敗したときのリスクが大きいので、まだテスト段階での
本格域な物の購入は危険と費用の面で次の様な仕様にしました。

 最初は簡易型でのものでしたが、湿度センサーによるON/OFF信号での潅水では、
湿度がどのくらいの時潅水するかがよくわからないので、センサーのアナログ出力を
スケーリングでパーセントに変換し潅水できるように、デジタルスケーリングメーターリレー
を使うことにしました。
 それが下図です。
IMG_6770_0000.JPG
IMG_6774.JPG
Scan.jpg
説明しますと、表示パネル図左からパイロットランプと電源SWです、そのすぐ右がウィーリー
タイマーです、機能的には前のオムロンのものが良かったのですが、これはホームセンターで
オムロンの1/10の価格で売っています。
ここまでがAC100Vラインです、ここから右はDC24VとDC5Vのラインです、将来太陽光発電
(ソーラーパネル)を使うためのモデル回路です。次の24Vと5Vの電源ランプです両方共LEDの
発光ダイオードです、つぎの右は上は2色のLEDでタンク(20L)のの通常は緑いろですが、水位
が下ると赤色に変わります、その下のLEDは赤色の点滅タイプでポンプが回っているときだけ
点滅します、トグルSWはスプリングリターン式でポンプのチェックにつかいます、下に押して
いるときのみ作動します。その右は上は土壌の温度を監視すめもので、将来はメーターリレーに
して、高温になったら散水を考えてのものです、下はポンプの仕様が解らないので、ポンプの
駆動時の電流値と電圧をチェックするためのもので、それによってはDC電源のW数を上げる
かもしれませんが、仕様が解れば不要になるかもしれませんが、中国製なので、311円です、
同じものを秋月電子で買えば約2倍です。一番右はデジタルスケーリングメーターリレーです、
本当は上下に2ケつける予定でしたが、ネット詐欺にあい、1ケになりました。



ネット詐欺は自己責任で自分が悪いのですが、その処置の対応では、自分が住んでいる地域の
警察署、自分の口座のある振込銀行、消費者センターは親切に対応してくれたのですが、詐欺
会社の口座三井住友銀行の東大阪支店、の電話に出た女性、上司にも取り次いでくれず、対応が
不愉快でした、おかしいのは会社の所在地は東京都台東区なのに、口座は東大阪支店、それと
自分が振り込んだ翌日に口座は凍結されましたので、警察では凍結されているかもしれない
ので、三井住友に受理番号を言って聞いてみなさい、とのアドバイスもいただいたのに、
その女性調べることもせず、無理ですと断られてしまった。
このメーター本当は1ケ32000するのでかず、それが、11000だったので中古品かもしれないと
思いつつ2ケ注文してしまいました。なので今回はグレードを下げて23973円のを1ケにしました。
それで今回は2ケの湿度センサーを切り替えてデーターを取ります。


 上の表示パネルの配置が上側に寄っているのは、タカチ電機のケースが以前のものが生産中止
となり高さが100しかなく、パネルメーターやサーキットプロテクター、タイマーなどの
高さがギリギリだったため中の配置をずらしたためです。

下の回路図は3電源の仕様と部品を安くするため、中国製にしたためです、3電源は全て
パイロットランプで表示しますので、ランプが消灯したらさの電源の故障かがわかります。
下が部品表の一部です、個数の欄の橙色で塗ってるのが中国製です。
Scan-2.jpg
ここで購入した中国製価格は国産の1/2~1/10ですが、取説・仕様書等が添付されて
いないので、品質については使ってみなければわかりません。
 使い方を間違ったり、配線を間違うと破損してしまうかもしれませんので、詳しくない
片へはお勧めできません。


 散水はボンプの吐出側に4ポート分岐菅で4回路に給水出来るようにして、その先に
ペットボトルを逆さにしてその口に100均で売っているジョーロの口からの給水します。
制御は上の回路図で書きましたが、メカの部分については、書いていませんので、下図
の通りです。
Scan-1.jpg
この図が今回のものです。
 ペットボトルホルダーは自転車用のものでこの絵ではペットボトルが逆さまですが、
この絵では逆さまにして、ジョーロの口をつけました。
前回のものは、2インチ塩ビのパイプに両端メクラ蓋で任意の位置にPT1/8のねじをたて
ワンタッチ継手をつけその先にウレタンホースで根元に給水していました。

 次はタイマー・リレーをシーケンサーにして、もっと使いやすいものにして、安定した潅水が
できれば、マイコン制御にしたら内部でコントロール出来るので、単なるデジタル表示器で
出来ますので、かなり性能もよく価格も安くなりますが、ソーラーパネルがもっと安く
なれば、なお安くなります。

現在コントロール部が完成したので、土壌と湿度のデーターどりをはじめました。
湿度はコンパレーターによってポンプをON/OFFするかウィークリータイマーよっての
ON/OFFですが、湿度が高いときはコンハレーターによってポンプは作動しません。
 

 今回はここまでですが、うまくいけば、改造します、
1. リレー、タイマーをシーケンサーに替える。
2. 水道管に電磁弁をつけ、水位センサーがONしたらタンクに給水する
3. 水位計のストロークを長くして上下限のセンザーにする。
4. 温度計をメーターリレーにして土の温度が高くなったら(鉢のため)散水して冷やす。

 ここまでは金額的にも負担は5万くらいで出来ますが゛、
全自動にするには、ソーラーパネル、鉛蓄電池、充電コントローラー、などが
必要です、金額は少し高くなりますが、完全全自動になりますのて、そこまで
持っていこうと思っています。
これは自分の趣味でやっていることなので、自分では解りませんが、根を詰めると
体に良くないと言われてますが、好きなことのためかつかれません。


下らんことを長々とかきまして、申し訳ありません。
今年も宜しくお願いします。

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江戸城の濠と川 [城・館・チャシ・グスク]

 長い間お休みをしました、傘寿をすぎてからは根気、気力、体調が整わず、実踏もストップして
しまい、それではと濠と川を調べ始めました。
 江戸城は太田道灌が築城し、徳川家康が入府した当時は、現在の本丸跡のみでした。
下図が当時の江戸でした。
Scan-1.jpg
 家康が入府当時は濠はなく、平川のみでした。現在の大手濠あたりが平川の河口でした。
その後は平川を利用して濠を造りましたが濠にも高低差をつけて流してました。
しかし、たくさんの川が流れている平川はたびたび氾濫しましたので、現在の水道橋から
柳橋までのバイパスを造りました、それが、神田川であり江戸城の外濠にもなっています。
 また、当時の川で谷端川、小石川、旧石神井川は江戸初期に無くなっているので、その資料は
少なく、本によっては、小石川という川はなかったとあります。
ただし旧石神井川は現在石神井川として王子を通り堀船で隅田川に流れています。
また、神田川(江戸川、平川、飯田川)水系の徳殿池(豊島区要町の粟島神社)からの
川は名前がわかりませんし、江古田の合流点の手前で無くなっているので、地下に
潜ったのか、?です。


では、江戸開府してからは下記図のように川がずいぶん増えています。
Scan.jpg
上図に載っていないのですが、下表は江戸城の濠と関連の川です。
Scan-2.jpg
川は交通の手段としても使われていました、それが河岸です、いまでも鎌倉河岸
などが残っていますが、当時は40~50くらい河岸がありました。


しかし、明治になってかなりの堀(川)が埋め立てられたか゛、地下に潜ったのか、
これは、当時の府知事が火事の多い東京を西洋のように、道路を広げ類焼を減らす
ために、埋められましたので、江戸時代の川は現在道路になっています。
また、その時府知事は道路に面した建物はレンガ造りを推奨しましたが、当時レンガ
は高価だったので、東京にもレンガ工場を造ったそうです。
 西洋に習ったのは車道・歩道を区分けして、整備したそうです。
最初に造られたその西洋風道路は銀座通りです、歩道がかなり広く作られています。

江戸時代、川端には柳がありました、今でも皇居の濠端に柳が残っています、昭和の歌にも
[るんるん]昔恋しい銀座の柳・・・」
[るんるん]柳碧める日銀座に燕が飛ぶ日・・・」
などがありました、今は道路になった柳並木ですが、明治以降は柳ではなく、ボプラ、楓、
紅葉、公孫樹、桜などに変わっているそうです。
下記は今でも残っている江戸城の柳です。
撮影は2007-9-20です。
IMG_1416.JPGIMG_1438.JPG
左は二重橋手前の桜田濠で、右は大手門手前の桔梗濠の柳です。

インフルエンザが広がってます、皆様お身体に気を付けご自愛くださいませ。
自分は肺気腫のため風邪をひくと肺炎になりやすいと医者に言われてますので、
先月に予防接種をすませました。


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芝口御門と城門 [城・館・チャシ・グスク]

 間隔が開きすぎて大変申し訳ありません、体調がすぐれないというより、歳なので
仕方がないのかもしれませんが、傘寿を過ぎてからは酷くなってきました。
 しかし今だに仕事の夢を毎日のようにみます、仕事を辞めてもう20年になろうと言う
のにです、体がついていけません、根気のなさ、記憶力の衰えなと精神的なものが、それ
と体力の衰えと、そろそろ限界かもしれません。

 なので、次の投稿は難しいかもしれません。

 前回三十六見附を書きましたので、今回は外郭の御門なのに三十六見附に入れなかった
見附「芝口御門」を載せます、この門は朝鮮からの外交使節団の来日に合わせ
て造営された門です。幕府の棟梁甲良家文書によれば、
「・・・六代将軍家宣公時代、宝永7(1710)年庚寅年に造営、御用掛棟梁甲良左衛門
享保9(1724)年正月晦御炎上其後御再建無之」とあります。
門は冠木門を入った右に渡櫓門とあります。
下は高野氏が描かれた芝口門です。
Scan.jpg

Scan-1.jpg
門跡には上図の絵図がありますが、ここに描かれてあるのは冠木門ですが、
屋根があります。
普通冠木門と言ったら屋根がありません、それで城門といったらどのような
門があるか。

石門
  虎口の左右を石で固めた形式の門です。
  現在会津若松城の天守台東側面に現存しています。
会津若松城の石門です。
IMG_4412.JPG20190415SS00004.png
DSCF2882.JPG
「静勝軒銘詩並序」に太田道灌が築造した江戸城は「凡そ三重なり、二十五の
石門ありて各々飛橋を掛く、懸崖千万屻なり」とありますがどのような門なのか
わかりません。

埋門(穴門)
     トンネル式の穴門で石塁の一部をくりぬいた形になっており外部からは
     その存在がわかりにくくなっています。
下が埋門です。
高島IMG_3887.JPG松代埋門9322.JPG
姫路IMG_5270.JPG
上左は高島城の駐車場からの入り口ですが、城古図には描かれてません。
上右は松代城ですが、これも古図にありれませんでした。
下は姫路城の山里曲輪の「る」の門です。

棟門・上土門(仕切門)  
      礎石の上に立てた二本柱に冠木を渡し、下部に蹴放しをわたして
      屋根組をしたもの。寺院の総門が同じ形式です。
二条南仕切門009.JPG二条天守台仕切門2431.JPG
大洲仕切門内側IMG_7683.JPG
上左は二条城の南仕切り門、右は同じく二条城の天守台仕切り門です。
下は大洲城の仕切門です。

四足門(四脚門)
      中世の城館の表門で二本の大柱の前後に四本の袖柱を立てて屋根は
      切妻か平唐破風造りになっています。
      中世の城館では、古河公方館、一乗谷朝倉氏居館にありました。
      近世の城館では大洲城の門にあります。
大洲四足門P8300162.JPG京都離宮四脚門.png
左は大洲城の四足門で、右は京都離宮の四脚門です。

ハ足門(八脚門)
      城館ではあまりみませんが、対馬の厳原城の客殿表門にあります。
      四脚門、八脚門は寺院の門に多く残ってますが、城では御殿などの
      表門に多くありました。
奈良法隆寺大門八脚門.png
奈良法隆寺の八脚門です。

高麗門
   二本の柱の上に切妻屋根をのせ主柱の後方に控柱を立て、主柱と控柱の上に
   棟行と直角に小屋根をのせたもので、門扉に潜り戸をつけたものが多い。
   枡形の一の門にこの高麗門が多いです。
   江戸城では大手門、外桜田門、田安門などほとんどの門に高麗門がありました、
   今はありませんが坂下門、半蔵門も枡形の一の門としてありました。
IMG_1142.JPGIMG_1409.JPG
左は田安門で右は大手門の高麗門です。

櫓門
  城門の両脇の石垣の上に多聞(渡櫓)を渡した二階門で、下方に入り口の
  門扉をもつもの、高麗門を一の門にこの門を二の門とした枡形を構成
  しています。
IMG_1144.JPGIMG_1411.JPG
左は田安渡櫓門、右は外桜田渡櫓門です。

薬医門(役居門)
   棟門の発達した門で門柱の内側に二本の控柱を立てて屋根は切妻造り
   です。
宇和島薬医門.JPG丸亀薬医門.JPG
大手門(現御香宮神社山門)33-16.jpg
上左は宇和島城の薬医門、右は丸亀城の薬医門です。
下は伏見桃山城の大手門(現御香宮神社門)です。

冠木門
   二本の柱の上部に冠木を組み込んだ質素な造りで屋根はありません。
   下がその冠木門です。
八王子DSCF1695.JPG新宮城冠木門.png
左は八王子城、右は新宮城の冠木門です。
 しかし芝口門の冠木門には屋根があります、それで城門を取り上げてみました。
冠木門は本来屋根をもたない門ですが、江戸城で冠木門があります、本丸口の
中雀門が冠木門です、多分この門を参考にしたかもしれません。下の写真が
明治初期の中進め門です。
7-5中雀門4.jpg
正面の門が高麗門ではなく冠木門です、この門の中は枡形で左は屋根だけ見えて
いるのが、書院出櫓で枡形正面は書院二重櫓と右横が捨間多聞です、右は
見えませんが書院渡櫓門でここをくぐると本丸表御殿の玄関です。

長屋門
   近世の武家屋敷の表門として、門の左右が長屋になって、門番の控え室
   や中間部屋が仕切られてあります。
下は長屋門です。
岩槻大手門015.JPG高崎三の丸東門027.JPG
左は岩槻城の大手門、右は高崎城三の丸東門です。

唐門
  唐破風を屋根の正面に配し腕木や肘木などに多く彫刻を施した門です。
二条唐門037.JPG二条唐門前広場019.JPG
二条城の唐門です。


 門の分類に用途や場所によってつけられた名、大手門、搦手門、鉄門など
ありますが、冠木門で屋根のある門が珍しいので門についてかきましたが、
自分が撮った写真をさがすのに時間がかかり過ぎました。探せばもっといい
写真があったとおもいますが・・・。


ここから本題の芝口御門です。
芝口門は六代将軍の時代に造られた門です、なので戦いのない時代です、防御の
門ではないのですが、絵図では家康時代の門と同じ形ですが、渡櫓からの右の櫓は
本当にあったのでしょうか、この門は朝鮮使節団の来日のために造られた門です。
下の絵図を見て下さい、汐留川上流の幸橋御門に枡形がありますが、この門は江戸
初期に造られた門です、その下流の土橋、難波橋には門がありませんが、木戸、番所
はあったかもしれません、その下の橋、門ができる前は新橋と呼ばれていましたが、
門が造られてから芝口橋と呼ばれてましたが、門が焼失してからは、新橋と呼ばれる
ようになりました。
 なので高野氏の絵図に違和感をかんじました。
 この門は14年間しかなかった門なので資料も少ないので、かなり錯綜しています。
 それで現在の御門跡が違う場所にあります、これついては跡地説明板にも書かれ
ています。
 ではその場所はれ゛の地図で見てください。
Scan-2.jpg
赤矢印が当時あった場所です、青矢印が現在の跡碑のある場所です。
薄いグリーンの東京高速道路の下が汐留川で、そこから上に伸びている
中央通りが江戸時代の三十間堀跡です。
別の地図でも赤丸矢印のところが御門跡ですが、同じようになって
います。しかし、この赤丸部のすぐ左上に金春屋敷跡というのがあのます。
Scan.jpg
下は江戸切り絵図です、この芝口橋の左上に金春屋敷があります。
これは江戸時代の絵図です、この絵図は芝口御門の焼失後に描かれた
ものなのです。
Scan-1.jpg
この門は焼失後は再建されていません。つまりそれほど城にとっては重要な門
ではなかったと思われます、この橋の上難波橋、その上の土橋に門がなかったのに
芝口門だけ立派な門を造ったのでしょうか、高野氏の門はどの門を真似てさ造った
のでしょうか。
 下の絵図を見てください、これはまだ門のあったときに描かれたものだと思われ
ます、少ない芝口御門の絵図です。櫓はありません。
Scan-2.jpg
Scan-3.jpg
上が芝口門ですが、高野氏の絵図と違っています、下の絵図を見てください
石垣の上に土塁があり、その上に塀があります。
「旧幕府引継書」「御触書寛保集成」などの資料には札ノ辻に芝口門があった
とか、芝口門の名があった場所が主でまた、港区立港郷土資料館、中央区立
京橋図書館の資料にも芝口御門についての門の規模、などについては書かれて
ませんが、また下図を見てください。
Scan-4.jpg
地図に門のあった場所、現在の碑のある場所については書かれてません。

あまり細かいことをかいたら、現在のものを信じていらっしゃる方の
夢を壊してしまいますので(以前唐津城は天守がなかったのにさもあった
ように描かれてある、とかいたら地元の方に嘘を書くなといわれました。)

下は現在の芝口御門跡です。
IMG_6731.JPGIMG_6726.JPG          




IMG_6728.JPGIMG_6727.JPG

IMG_6730.JPG
ここまでが、芝口御門の跡碑、説明板、絵図です。


DSCF4193.JPGDSCF4194.JPG
DSCF4195.JPGIMG_6717.JPG


IMG_6722.JPGIMG_6720.JPG
IMG_6719.JPG
IMG_6724.JPG
                                         
芝口門跡の道路の反対側にある三十間堀跡です、前の道路は堀跡です、なので芝口門は
実際には濠の先ですが門の跡碑はこの道路の後ろにあります。


まだまだ調査が不十分なので、続行しますが、文献、資料など御存じの方はお教え
くださいませ。

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江戸城の三十六見附 [城・館・チャシ・グスク]

江戸城の見附(門)は三十六と言われてますが、実際には門の数は90位ありました。
 自分が調べてみて、現在72門あります、見附は枡形の門つまり高麗門と渡櫓門ですが、
この場合二つの門で1とかぞえます。

 下表は現在調べて解った門です。
本丸・二ノ丸・三の丸・三の丸帯曲輪・三の丸大名小路にあった門です。
門1.jpg

下表は西の丸・西の丸吹上・西の丸下・北の丸にあった門です。
門2.jpg

下表は外曲輪の門です。
門3.jpg

では何で三十六見附と言ったのか、はっきりしたことはわかりませんが、三十六と言う
言葉(数)は言いやすいからではないかと思われます。

下にあげたのは、三十六と言われているものです。
1. 富嶽三十六景ーーー実際には四十六景です
2. 三十六歌仙ーーーこれは三十六人です
3. 三十六計ーーー中国の兵法書
4. 江戸自慢三十六興ーーー江戸時代に書かれた書
5. 三十六人衆ーーー藤原一族の姫が36人の家臣に守られて落ち延びた、現在はお酒の名前に
6. みやぎ蔵王三十六景
7. 織田信長公三十六功臣
8. 四国三十六不動霊場
9. 東山三十六峰
10.関東三十六不動霊場
11.三十六童子
12.江戸三十六番所
13.南波一海(なんばかずみ)のアイドル三十六房
外国でも
エッフェル塔三十六景
など、あります。

 三十六と言うのはゴロとして考えてください。

下の表は古書などからピックアップしてみました。
見附一覧.jpg
1. 江戸城見附図
江戸城見附図表.png
江戸城見附図裏.png

2.江戸城図録ーーーこれは著者名も発行したところもわかりませんので中をちょろっと
江戸城図録表.png
江戸城図録中1.png
江戸城図録中2.png

3.江戸築城叢話
江戸建築叢話表.png
江戸建築叢話裏.png
この所は同じ著者名で出版されています。下図
江戸建築叢話新.png
自分はこの新しい叢話は見ていませんので、中身が同じかわかりません。

4.江戸城見附絵図
江戸城見附絵図表SN200003.png
江戸城見附絵図裏.png
これは日本城郭協会の初代会長の井上宗和氏が書かれたものです。

5.ウイキペディアーーー皆様ご存知のインターネット百科事典といわれているもので、
  執筆者名も出目もないので、資料としては、3級資料です。
6.7.8.はほぼ同じなので、これらが一般的に言われている三十六見附かもしれませんが、
見附とは交通の要所に見張り所とあります、18.18.は二ノ丸、本丸の中ですしまた、午後6時
を過ぎると門の中にはいれません、だから1.の見附と言われる26門が近いのかも知れません。


下の見附と濠の中で門は上記表のように沢山あるのて゜すか゜、これ以上書くとかえって見づらく
なってしまうので、書いてありません、また堀川にも名前があったのでしょうが、まだ調査中です。
見附と濠.jpg


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高輪大木戸跡 [城・館・チャシ・グスク]

 明けましておめでとう御座います。
 旧年中は来て頂き大変有難う御座いました。
 今年も宜しくお願いします。

 前回、前々回と「品川台場」「御殿山下台場」と載せましたが、今回「高輪大木戸跡」にしたのは、
昨年暮れから「高輪ゲートウェイ駅」が巷を騒がせていますが、この駅は「高輪大木戸跡」の所に
出来る駅ですが、大変不評のようで、発表から5日で35、000の反対の署名が集まったそうです。
 本題とは離れますが、下記がダサイ駅名ランキングです。

1.とうきょうスカイツリー駅(東武伊勢崎線 旧業平駅)
2.流通センター駅(東京モノレール 羽田空港線)
3.テレコムセンター駅(東京臨海新交通 臨海線(ゆりかもめ))
4.
5.有明テニスの森駅(東京臨海新交通 臨海線)
 東京テレポート駅(東京臨海新交通  〃  )
6.モノレール浜松町駅(東京モノレール 羽田空港線)
7.品川シーサイド駅(東京臨海新交通 臨海線)
8.多摩センター駅(小田急線・京王線・多摩都市モノレール)
天王洲アイル駅(東京臨海新交通 臨海線)
たまプラザー駅(東急田園都市線)

 これは12/5~12/6に東京在住の18歳~50歳の男女100名のアンケート
です。

 何故こんなに不評だったのかは、応募では
1.高輪
2.芝浦
3.芝浜
でした、高輪ゲートウェイは130位でした。
 高輪と言う駅名は京浜急行がまだ京浜電気鉄道と云っていた時、京急は現在の品川駅を
高輪駅と云ってました。
 だから使いたくなかったのかなー?。


 江戸の大木戸は四谷、板橋とこの高輪の三箇所ですが、木戸は各町内の出入り口に
ありました。
 この内四谷と高輪には碑があるので、わかりますが、板橋については何も遺構、碑などがない
ので、はっきりとした場所が判りません。

 この高輪の大木戸も江戸初期はここではなく田町の近くの札の辻にありました。
下の地図はその付近のものです。
高輪ゲートウェイ.jpg
 今度できる高輪ゲートウェイ駅のすぐ左上に京急の泉岳寺駅があります。
 高輪大木戸跡は東海道(国道15号)に一部の石垣が遺構としてあります。この東海道を
江戸に向かって歩くと大きな三叉路に突き当たります、右へは東海道(国道15号)で日本橋
に行きます、左へ向かうと(桜田通り)桜田門に突き当たります。
この国道1号はちょっとわかりにくいのですが、桜田門から霞ヶ関を赤羽橋を通り三田2丁目
の交差点を右折するので、この三田2丁目から札の辻までは国道1号とは違いますが、この
札の辻に高札場があり、芝口門が建てられました、なので江戸初期はここが江戸の入口で
した。その後札の辻から高輪へ移され高輪大木戸として、東海道の江戸への入口となりました。
 この遺構ですが、下図をみてもらえば解りますが、歩道と車道の囲まれたところにあります。
ここの碑ですが、車道に近い所に建ってますが、正面は車道側を向いていますので碑の正面から
の撮影は出来ません、前々回載せた品川台場の台場公園となっている第三台場の碑も正面は
海ですが、ここは端から2~3Mあるので写真は撮れましたが方位的でしたら台場は東を向いて
いますが、この高輪大木戸は西を向いていますので、方位的な意味はないと思うのですが。
Scan.jpg
この後の写真で見てください。

高輪大木戸跡

所在地 東京都港区高輪2丁目19番地

遺構 石垣・土塁・跡碑・説明板

築造 宝永7(1710)年

 
 東海道の江戸の入口としてもうけられました。
 初め元和2(1616)年札の辻に芝口門が建てられ、高札場が置かれました、が江戸拡張で
この地高輪に大木戸、高札場が移されました。

 寛政4(1792)年に廃止され、明治元(1812)年に西側(車道側)は撤去されました。
 現在は海岸側 幅5.4メートル、長さ3メートルの石垣が残っています。

 東海道(国道15号)の京急「泉岳寺駅」の近くで国道の反対側には赤穂浪士で有名な
泉岳寺があります。また、JRの「高輪ゲートウェイ駅」ができます。

IMG_6673.JPG
IMG_6675.JPG
                                               
この碑左は左斜め後ろから撮ったもので、右の写真は体を車道のほうにして右側から
撮ったものです。

IMG_6672.JPG
説明板です。

DSCF4163.JPGIMG_6677.JPG

DSCF4168.JPGIMG_6676.JPG

DSCF4162.JPG

 今年も宜しくお願いします。

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御殿山下台場 [城・館・チャシ・グスク]

 この台場は最初は造る計画にはありませんでした。
 幕府は第四、第七台場も財政難で途中で中止し、第八から第十一の台場もやめました。
そのとき浮上したのが、目黒川の河口でした、ここは海上ではないので、築造するのに
海上に比べて資金の調達が楽でした。

 幕府は安政元(1864)年頃この地(現品川区東品川一丁目)に五角形の台場を築造しました。
154門の大砲を備えました。

 現在は面影はありませんが、品川区立台場小学校・台場幼稚園になっています。
 小学校の周辺の道の形に五角形の跡を見ることができます。


 下の地図は今までに踏査した場所の位置関係です。
全体図.jpg

 下は品川台場と御殿山下台場の位置図です。
品川台場図.jpg
見ての通り第四台場と御殿山下台場は近くにありますが、当時第四台場は海上
ですが、御殿山下台場は目黒川河口でした。

3.御殿山下台場.jpg
御殿山下台場の地図上の位置です。



DSCF4802.JPGDSCF4803.JPG
正面が小学校で門右側が碑と説明板です。

DSCF4818.JPGIMG_6667.JPG
碑と説明板です。

DSCF4805.JPGDSCF4816.JPG
IMG_6668.JPGIMG_6664.JPG
碑と説明板です。

DSCF4810.JPG
IMG_6661.JPG
                                               
                                                                  
この御殿山下台場跡に明治3(1870)年に建てられた日本で3番目の洋式灯台ですがこれは
レプリカです。
灯台の下の石はこの台場の築造に使われた石垣の石です。


今年はこれが最後の投稿です。
今年も来て頂き大変有難うございました。
早いものでこのブログを始めてから13年になります、ホームページのほうは33年を期に
今年の7月に閉めましたが、ブログは続けるつもりです、間隔があくかもしれませんが、
宜しくお願いします。

 良いお年をお迎え下さいませ。


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品川台場 [城・館・チャシ・グスク]

 体調を崩し、気が付いたら半年ぶりです。
 江戸城について踏査を始めてまだ「品川台場」「御殿山下台場」「浜御殿」「幸橋門跡」「芝口門跡」
「高輪大木戸跡」とまだ6ケ所しか終わってません。

 11月3日に合わせて、文化庁の「文化財保護月間ですが、これも昨年辞めたので、資料も集まらな
くなりました。

 台場はペリーの来航以来で、幕府、各藩で外国からの防衛のため、台場が築造されましたので、
海岸線を持つ藩は台場を造り、海からの脅威に対応しました。

 幕府は
1. 観音崎と富津に台場を建設する。
2. 品川の内海に台場を建設する。
としましたが、嘉永5(1852)年5月に西の丸の焼失、嘉永6(1853)6月に12代将軍家慶の死去と
財政難のため第一案は困難と、第二案のみを計画しました。
 建築案は品川の漁師町から東北の深川須崎(現在の江東区東陽町)にかけて連珠のように11
基、御殿山下の海浜に1基を造る案でした。
 その後も戊辰戦争、西南戦争でても造られました。

 幕府は嘉永6(1853)年伊豆韮山代官の江川英龍に命じ、品川台場に砲台を作らせました。
工事は急ピッチで進められおよそ8ケ月の工期で、ペリー再来航までに、第一~第三台場までを
完成しました。これを品川砲台(品海砲台)と呼ばれました。

 台場は正方形、五角形の洋式砲台で、その後第五~第六台場が完成しましたが、第四、第七
台場は途中で中止となりました、理由は財政難のためだったようです。
(七年後に完成したという説もあります、間違いやすいかもしれませんが、後記にもあるように
七つの台場と言う言葉があるので、七つだったのかもしれません。)

 やはり財政難だったためか、第八~第十一台場は築造されることはありませんでした。
 しかし御殿山下台場は築造されました。
 この御殿山下台場については、次回にします。


 幕末幕府が財政難だった様子が下の写真にみられます。
 この写真は当時の太政官の役人だった蜷川式胤が写真師横山松三郎絵師高橋由一の
協力を得て明治4(1871)年に作成した旧江戸城の記録の写真集です。
この「旧江戸城写真帳」は東京国立博物館蔵です。
 下記の写真はその写真ですが、一見廃屋にみえます、当時財政が苦しく御殿以外には
手がつけられなかったのでしょう。
下梅林 門、番所.jpg上梅林門と櫓門.jpg
多聞.jpg
これをみると歌の一節「菊が栄え 葵が枯れる」を思いたします。


下は現在の地図に台場の位置を示したものです。
 現在遺構が跡を示す何かがある所は赤丸で青丸は遺構が確認できない所です。
品川台場図.jpg
 第八~第十一台場は資料がないので、位置を示すことができません。

下はまだ海の科学館や品川埠頭が出来る前の、国土地理院の航空写真です。
品川台場航空写真.jpg
第四と第七代場は勝手に位置をかきましたが、その他の台場ははっきりと写っています。

資材の調達
木材
   木材に関しては下総国旧根戸村(現在の千葉県我孫子市と柏市の一部)と鑓水村(八王子市)
この村も御殿山と呼ばれている広大な御林があり、ここから運びだされたのは4924本でした。
たまたま10年くらい前「地域のこぼれ話」に出席したときの資料が下です。
八王子と台場.jpg
八王子と台場2.jpg

石材
  石材は伊豆・相模・駿河の3国に石材の調達を命じ、石材の切り出し、運搬にはおよそ1000人を
動員しました。



  埋め立て土は品川区にある御殿山、高輪、高輪泉岳寺の境内から搬出しましたが、これでは
足りず隅田川の浚渫土も使用しました。


第一台場
     品川埠頭の中央東側(品川区港南5-2)あたり、現在コンテナ置き場の南側あたり

台二台場
     第一と第三台場の直線上の中間あたりあった、航路の邪魔となるため撤去されました。

第三台場
     現在立ち入ることができる唯一の遺構です。
     現在のお台場海浜公園になっています、この公園には駐車場、レインボーブリッジの
     歩行者通路がり、第三台場には防波堤跡の道とつながっています。
     この後は写真で説明します。
第三台場入口IMG_6599.JPG第三台場入口'2)IMG_6608.JPG
左は公園から見た防波堤(前記航空写真参照)でその先が第三台場です。
右は第三台場への道(旧防波堤跡)

第三台場入口(3)IMG_6615.JPG第三台場外石垣IMG_6637.JPG
左第三台場入口です、当時は陸続きではないので、ありませんでした、右はその横の石垣です。

第三台場(4)IMG_6563.JPG第三台場(2)IMG_6545.JPG
左はレインボーブリッジから見た第三台場です、右は旧防波堤と台場です。

第三台場船着場IMG_6558.JPG砲台と船着場IMG_6560.JPG
船着場です資材はここから搬入しました、船着場右に台場碑がみえます。

船着場IMG6629.jpg
台場から見た船着場です。

石垣に使われていた石(2)IMG_6613.JPG石垣に使われてた石IMG_6612.JPG
柵の中の石は石垣の築造のため運ばれてきた石の残りでしょうか。

お台場公園案内板IMG_6595.JPGお台場海浜公園案内板IMG_6596.JPG                                                
                                
                                                 
                                                                  
                    




                                                 
                                                                  
                                                                                                                     
                                                                  
                                            
お台場海浜公園の案内板です。

第三台場説明板DSCF4743.JPG
台場公園案内板(5)IMG_6620.JPG台場公園案内板(4)IMG_6619.JPG
第三台場の説明板です。

陣屋跡DSCF4763.JPG陣屋跡IMG_6627.JPG
陣屋跡ですが、このコンクリートの礎石は大正時代になって作られたものです。

弾薬庫IMG6633.jpg石垣DSCF4749.JPG
左は弾薬庫跡で、右はその近くの石垣です。

砲台(レプリカ)IMG6629-1.jpg砲台(レプリカ) (2)IMG6629.jpg
砲台のレプリカです。

第三台場碑(5)IMG_6635.JPG
第三台場碑DSCF4784.JPG
第三台場碑(3)DSCF4786.JPG
                                                  
台場碑ですが、正面は海を向いています、誰に見せるための碑ですかねー。

格納施設跡のかまどかIMG_6622.JPG弾薬庫跡かDSCF4772.JPG
左は格納庫跡のかまどです、右は建物跡のようです、格納庫跡が。

建物の跡かDSCF4746.JPG
ここも何かの建物跡のようです、ここも格納庫跡か。

砲弾を格納施設跡IMG_6628.JPG石垣(5)IMG_6625.JPG
台場の中です砲台の内側はこのように土塁に囲まれていて、陣屋、格納庫などのほか
駐屯していた武士たちの生活の場です。

碑IMG_6610.JPG
防波堤(現在の台場への道)にある碑です。

第四台場
     天王洲の第一ホテル付近(品川区東品川2丁目)
     天王洲アイルノシーフォトスクエアはここを埋め立てて造成されました。
     いまでも水路に面した石垣は第四代場の石を積みなおしたものです。

第五台場
     品川埠頭の東京入国管理局の東北あたり(品川区港南5-11付近)ですが
     何の遺構もありません。

第六台場
     現存しレインボーブリッヂの橋脚近くにありますが、立ち入り禁止のため
     レインボーブリッヂの歩道橋からしかみることができません。
第六台場(6)DSCF4781.JPG第六台場(7)IMG_6542.JPG
左は第三台場から見た第六台場で右はレインボーブリッジから見た左第三正面第六台場です。

第六台場DSCF4689.JPG第六台場(10)IMG_6582.JPG
レインボーブリッジから見た第六台場ですが、正面(一番近い場所)からは金網が邪魔しています。

第六台場(9) IMG_6575.JPG第六台場(3)DSCF4696.JPG
レインボーブリッジから見た第六台場です。

第六台場(5)DSCF4702.JPG船着場 (2)IMG_6574.jpg
第六台場の船着場です。

鳥の島(2)IMG_6579.JPG鳥の島DSCF4693.JPG
鳥の島とありますが、前記航空写真でみえる防波堤です。これも昭和初期に築造
されたものです。

レインボーブリッジ歩行者道(2)DSCF4699.JPGレインボーブリッジ歩行者道DSCF4687.JPG
これはおまけでレインボーブリッジの歩行者専用道路で横は車道で上はゆりかもめです。

完成した台場は親藩大名が海防にあたりました。
第一台場   川越藩
台二台場   会津藩
第三台場   忍藩
です。
尚、第七代場はどこまでの進行か、また位置もはっきりとはしていません。
下のミュージアムで資料を見ることができます。


品川歴史館

船の科学館



どこまで続けられるかは?ですが、・・・。

次回は御殿山下台場です。

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50年前の安土城 [城・館・チャシ・グスク]

 この安土城については7年前の「城紀行」でちょっと載せましたが、前回の天守の中で、
昔は天守閣とは言わなかったと書きましたが、この安土城の跡碑では「天主閣」と書かれて
います。
 以前日本城郭史学会の代表の西ヶ谷氏がなにかの本で天守閣と言われるのは、
「江戸城」と「安土城」だけだと書かれているのを見たことがありましたが他に資料を見つける
ことが出来ないので、ここは深く考えないでください。

 それとこれも前回書きましたが、当時の文部省が手を加えて(天守の復元)ならぬとのこと、
ですが、では文化財だからと言うのであれば、もう少し保護に力をいれたらと思います。


では、当時の安土城についてですが、53年前ほとんど記憶がありませんので、前にもお話した
ように、訪城記(城紀行)から記憶を思いださせています。
下が城紀行のノートの1冊目です。
 1冊目は1963年の浜松城から1965年の岩槻城までの56城がかかれています。
Scan.jpg
下が書かれている内容です。
「1965(昭和40)年1月3日  晴  PM2:00~PM3:40

彦根をでたのが、12:30だから1時間半かかった、安土駅で降りて、お年寄に安土城
への道を聞いたら、あんたNHKのひとか、と言われた、城跡に行っても何もないよ、
ええ解ってます、一緒に行ってやるよ、こんな城だーれもきやしねえ、NHKの方は
時々来るのですか、、時々じゃねえたまーにだ、でもお城の研究会(日本城郭協会
・関西城郭研究会・東海古城研究会)の方たちがきているのでは、来てっかもしんねいが、
あまり見かけねえ、あんたみてぃに正月早々来る人なんかはじめてだ、正月に登る人は
あんた一人だ、ここに天守閣を建てる話があったが、文化財なんとかいうところが駄目
だと言って、そのままだ。
 登っている途中に困ったことに、この安土山で狩猟しているしている、人影は見えないが、
近くで音がきこえる。
 石垣も崩れかけているところがある、文化財と言うならもっと保護してもらいたい。
このお年寄がいなければ、もっと時間が掛かったかもしれない。また、色々と情報
も頂大変有難うございました。」
と書かれています。このノートがなければ、忘れてしまっていることです。また、城を廻る
ために、カメラも2台内1台は35mmでしたが、もう1台は1眼レフです、当時はズームが
あったかどうかは自分が購入したのは28mm、125mm、300mmと標準の52mmでした。
が全てズームではなく固定焦点のものでした、フイルターもFV..C4.W4などでした、当時は
自分で言うのはなんですが、結構マメでした、下のようにネガケースに撮った場所、レンズ
フィルターも書き込んでいたので、場所も写真と間違えずにすることができました。
Scan-1.jpg


 ところが、帰ってきてから写真を焼いたところが、大手門跡におばあさんが写っています、
あの時お年寄は正月早々来る人なんかはじめてだ。と云っておられたし、自分も前を
歩いている人はいなかったと思ったが、この写真は心霊写真ではありませんが、木の影
は写っているのに、おばあさんの影は写ってません、しかしこのお年寄の住所は聞いて
いなかったので確認出来ず、心に引っかかるものがあります。

では、写真です。


安土山(安土城址)遠景38-1.JPG
城址碑29-18.JPG

左は安土山(安土城)遠景、右は城址碑です

大手門跡29-1 -.JPG大手筋石垣29-11.JPG
左が問題の写真です、目の前におばあさんが登っています、シャッターを切る前
フェンダーには無かった景色です、しかし、この後下山するまで、姿を見ていません、
今と違って当時は合成技術なんかありませんので不思議です。
場所は左が大手門跡で右は大手筋石垣とありました。

大手通り石垣29-32.JPG豊臣秀吉邸跡28-28.JPG
左は大手通り石垣で右は豊臣秀吉邸跡とありますが、安土時代は豊臣でなくて羽柴
のはずですが、石碑には豊臣とありました。

前田利家邸跡28-31.JPG徳川家康邸跡28-32.JPG
左は前田利家邸跡、右は徳川家康邸跡です

織田信忠邸跡29-13.JPG織田信澄邸跡29-4.jpg
左は織田信忠帝跡、右は織田信澄邸跡です

森蘭丸邸跡29-12.JPG菅野九右衛門邸跡29-8.JPG
左は森蘭丸邸跡、右は菅野九右衛門邸跡です

二の丸口28-30.JPG二の丸跡碑29-3.JPG
左は二ノ丸口、右は二ノ丸跡碑です

黒金門跡28-29.JPG黒金門枡形石垣29-14.JPG
左黒金門跡、右は黒金門枡形石垣です。

黒金門枡形石垣28-33.JPG本丸口28-34.jpg
左は黒金門枡形石垣、右は本丸口です

本丸口石垣29-2.JPG本丸跡29-10.JPG
左は本丸口石垣ですが、かなり崩れています、右は本丸跡です

小田信長本廟28-35.jpg
小田信長廟所28-36.jpg
            
左は織田信長本廟、右はその碑です

小田信長墓所29-9.JPG天守閣跡29-16.JPG
左は織田信長墓所、右は天守の礎石です

天守台口石垣29-15.JPG天守台石垣29-6.JPG
左は天守台口石垣、右は天守台石垣です

天守閣跡石垣38-3.JPG天守台より望む旧弁天内湖29-5.JPG
左は石碑に「天主閣址」と書かれてあります、右は天守台より望む旧弁天内湖です

天守台より望む弁天内湖38-2.JPG八角平より望む旧弁天内湖38-7.JPG
左は天守台から望む弁天内湖、右は八角平より望む弁天内湖です

八角平より望む旧弁天内湖38-4.JPG台所跡石垣29-16.JPG
左は八角平より望む弁天内湖、右は台所跡石垣です

総見寺本堂跡29-7.JPG総見寺仁王門38-6.JPG
左は総見寺本堂跡、右は総見寺仁王門です

総見寺三重塔38-5.JPG
総見寺三重塔です

当時は城に関係ある書籍もすくなく、資料も少なく、国会図書館だのみでしたが、国会図書館は
日曜日が休みだったので、休暇をとっていかなければ調べることができなかったので、当時は
日本城郭協会、関西城郭研究会、東海古城研究会、西日本城郭研究会、歴史研究会(人物往来社)
など見学会に参加して情報を集めていました。
今は便利です、本も買わずも図書館にも行かず、ネットである程度が調べられるので、
一時城郭・歴史書だけで1000冊以上の蔵書がありましたが、それで十数人の
方に差し上げていましたが、不思議と差し上げた方々が離れていくので残りの蔵書は
図書館に寄贈することにしました。
 終活を始めています。いつまで続けられるか自信がありません。










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天守のお話 [城・館・チャシ・グスク]

 天守はお城を代表する象徴的な建造物です、ですから城=天守と思われがちですが、
城の中で天守のあった城は1%にも満たない数です、現在は町のシンボルとしての天守が
増えてきました。

天守の文字が文書に見られるようになったのは、「細川両家記」(1550天文12年)の中に
天守と言う文字が見られます、「遺老物語」では殿主、、「松屋筆記」には天主という文字
がみられます。
 しかし多くの書に安土城の天守が最初だと書かれてます、何故はっきりしないのかは
その古文書の裏づけとなる文書や発掘調査でも裏づけがとれていないので、否定も
肯定もされていません。
 このような覚える必要も調べる必要もないので、省きますというより、この時代の書の
解読が出来ないというのが本音です。


 天守を建てた目的・要素はなんなんだろうか。

1. 主殿の建築の中心に望楼があって、重層となった殿主建築の発達。

2. 眺望性と装飾を兼ねた楼閣建築の発達。

3.守城の時における戦闘上の必要性から構築された井楼櫓、矢倉の建築。

4. 城主の権力の象徴、相手への威嚇。

などがあります。秀吉の時代領主はこぞって天守を建てましたのですが、家康の時代に
なって、一国一城令のため支城の天守は取り壊されましたし、天守の再建はあまりない
ようでした。
 しかし明治維新によって破壊された天守、空襲、落雷、地震、火事などで消えた
天守がほとんどで、明治政府は明治6年に「廃城令」を布告しましたが、陸軍省の
管轄の城はその限りでないとのため、二条城、大坂城、津城、名古屋城、彦根城、
姫路城、岡山城、広島城、丸亀城、熊本城、首里城は陸軍省の管轄のため保存
されましたが、その他の城は売却・払い下げで廃城処分されました。
昭和の大東亜戦争のときもこれらの城は大本営になりました。今でもその名残が
広島城の大本営跡や新発田城の自衛隊の駐屯地です。
現在国宝の城は姫路城、松本城、犬山城、彦根城、松江城と二条城ですが、二条城
には天守がありません、国宝は二ノ丸御殿です。
このように天守がないのに、国宝とお思いでしょうが、戦前の国宝は25城ありました。
が、仙台城や、金沢城は天守がないのに国宝に指定されています、今回は天守なので、
国宝とは別にしています。

、昭和25年ころは江戸時代の1/10までになりました。

昭和30年代になり第一次お城ブームで復興、模擬を含めて90くらいの天守が建てられ
ました。

 天守ですが、戦前までは天守としか呼ばれていませんでしたが、いつの間にか
天守閣とよばれています。
 では閣とは二層(二重)以上の建物、お寺などに使われている、金閣寺、銀閣寺なと゛
とあります、なので天守も閣といえます、しかしお寺は2階だと閣ですが、塔の場合は
五重塔、三重等といいます。 江お城も昭和のころまでは、五層七階、四層四階と層で
呼ばれてましたが、今は塔と同じで五重七階、四重四階と変りました。
 お城の場合、外観の屋根の数で重を表しますが、内部は外から見えない隠し階
があります、これも戦略的に敵を欺くものです。

 天守は昔の書によりますと、天守、天主、殿守、殿主と書かれています。

天守の種類と言うと望楼型、層塔型などと形態ちがうものを言うのですが、
「現存天守、復元天守、復興天守、模擬天守、観光用天守に分類されます。

現存天守

 維新前から現存している天守で修理にも文化庁の許可が必要です
現在は12城あります。
現存天守.jpg
現存の天守はすべて国宝か国重要文化財です、一昨年松江城の天守も子ひくほうに
なりました。



復元天守

 復元と言うことは史実に基づき史実の通りに再現したものです、木造復元とか外観復元
とか言っている方がいらっしゃいますが、史実に忠実でないものは復元ではありません。
ただし現在の建築法で出来ない場合はやもうえませんが、注記が必要ではないでしょうか。

復元天守.jpg



外観復興

 位置、規模は史実とほぼ同等で、内外間が史実と異なる姿で再建されたものを言う。
指図、資料が完全でないものも或る。

復興天守.jpg




模擬天守

 位置、気穂、外観、天守の有無にかかわらず、資料もなく、推定で建てられた天守。
あいまいなところが多いので、模擬か観光かの区別が難しい天守もある。

模擬天守.jpg



観光用天守 (観光・天守風・怪しい天守・天守もどき・おかしな天守、等)

 城跡でもなく、観光目的のためにたてられた天守。
ここに載せていませんが、民間のお店、焼肉屋さん、すし屋さん、そば屋さん、
お菓子屋さん、など等全国で数百軒ありますが、面白いかもしれませんが、
天守と関係がないので、省きました。

観光天守1.jpg
観光天守2.jpg

 ここに載せた天守は151城です、今から5~60年前読売新聞にあまり観光目的で
城跡に建てないように書いたのですが、変りませんでした。しかし、現在廃墟となって
いる城、取り壊されてしまった天守、などかなりあります。
 昭和35年頃安土町が文部省(当時は文化庁はなかった)に天守を再建したいと
打診したところ、史蹟を破壊することはまかりならぬと却下されました、たまたま
城跡が国有地だったためですが、史蹟は国民の財産です、ですすが、民有地の
場合は仕方がないのかもしれません。

 現在、名古屋城や小田原城で天守の復元を計画されています。

また、文化庁からお叱りを受けた自治体があります、
長崎県のある町の町長さんお花見のため城跡を破壊し元の状態に戻すよう
言われました。

和歌山城では石垣の横での出店をやめるよう注意されました。

熊本城では地震前矢継ぎ早の再建に、文化庁から調査、計画はもっと
時間をかけてやるよう警告をうけました。

次回は当時文部省にストップをかけられてしまった。「安土城」の50年前の
お話です。




 
 
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一昔前のお城の姿 3 [城・館・チャシ・グスク]

 今回は天守について載せる予定でしたが、まだ編集ができていないので、今回は
前回の続きです。

当時の城についてほとんど記憶にないので、「城紀行」より思い出していますが、
読んでも記憶は蘇えってくれないのが、現状です。


武蔵松山城  1963(昭和38)年9月22日
そのときを思いだすことが出来ないので、「城紀行」より。
「今日は協会の見学会、参加者は100人くらいだろうか、講師は鳥羽先生、自然の要害
川をバックにした小山にあるが、慶長5年に廃城となっているので、遺構がなく、城址碑
があるだけの城だ。・・・。」
 
 この時青鳥城もいったのでレジュメは二つの城が書かれている。

青鳥・松山レジュメ.jpg
多分このレジュメも小和田先生方がガリ板で書かれたものでしょう。
城址碑・土塁021.JPG
城址碑019.JPG
                         
城址碑です。
城入口022.JPG
城入り口
何故か3枚の写真しかありません。


青鳥城  1963(昭和38)年9月22日
この城も見学会で武蔵松山城の後に訪れた城です。これも「城紀行」から
「・・・。現在民家、畑地となっている・・・。構築形式からみて南北朝時代のものだ
そうだ。・・・。」
説明板026.JPG空堀027.JPG
左は説明板、右は空堀

内堀025.JPG一文字塁029.JPG
左内掘、右一文字塁。

城内の墓030.JPG墓(城主)032.JPG
城内の城主の墓

 

小田原城  1963(昭和38)年10月6日
「城は公園となり、動物園、遊園地、グランド、市庁舎、小学校などがあり、復興
したばかりの、天守に上がり、石垣山をみたがよく判らない、天守内は大久保家の
資料、駕籠、小田原提灯などが展示されていた。」
残念だったのは、当時小田原古城については知らなかったので北条の城八幡山
古城に行けなかったことです。
下がそのときのパンフですが、16ページの小冊子です。今の1枚のパンプより
いいです。
Scan_edited-1.jpg

復興天守閣001.JPG
天守0.jpg

復興天守ですが、当時は天守の石垣のところまで、車が入れました。

堀・橋・櫓021.JPG隅櫓左は馬屋曲輪009.JPG
櫓は二ノ丸の隅櫓です、隅櫓の左は現在整備された馬屋曲輪で木々は
伐採されています。

本丸跡碑3.jpg本丸から二の丸へ012.JPG
左は本丸跡、右は二ノ丸から本丸へ行く門跡かも?。

常盤木門跡石垣004.JPG
常盤木門跡碑010.JPG
            
常磐木門跡の石垣です、現在は門が復元されています。

お茶壷端015.JPGお茶津補付近の堀014.JPG
お茶壷付近です。

塀018.JPG大名駕籠と小田原提灯005.JPG
塀ですが、現在あるかどうかは確認していません、と言うのは場所がどこただか
解らないので。右は天守1階にあった駕籠と小田原提灯です。

階段側木札は天守閣完成009.JPG小田原駅ビル2階食堂から見た小田原城022.JPG
左の階段横に天守閣完成とかかれたものが置かれていました、右は当時小田原駅の
駅ビルの二階は食堂だったので、そこから小田原城の天守がみえましたが、
現在はビルがありみえません。



石垣山一夜城  1963(昭和38)年10月6日
記憶がないので、「城紀行」からです。
「"草深き古城をそよぐ野分哉"
"虫の音に偲ぶ古城か苔の色"
小田原の帰りによったのだが、本丸跡以外は何の標識もないので、位置の確認
ができない、史蹟とは名ばかり、動物園や遊園地を少しでも史蹟の整備に回して
ほしい。・・・。」
石垣山入口の石垣004.JPG石垣山入口の石垣005.JPG

石垣山入口の石垣003.JPG
石垣山入り口2.JPG
              
写真右は石垣山入口ですが、今考えますとよく一人で行ったなーと言うかんじ。

石垣山入り口.JPG本丸跡.JPG
写真左は本丸跡碑ですが、草が生い茂り近けません。

石垣山碑.JPG
二ノ丸011.JPG
                                  
写真みぎは山頂にある碑、右は二ノ丸跡か。

石垣山より小田原方面001.JPG
小田原城をみましたが、見えませんでした。


この小田原城、石垣山一夜城のフィルム、デジタル化したCD、プリントした
写真は小田原城館長に差し上げました。
このように学術的目的に使われるかたには差し上げてます。



千葉城  1964(昭和39)年1月19日
「今は公園となって子供の遊び場となっている、本丸は小高い丘といったところに
あり、西に東京湾、東北に千葉市内で眺めも良い、昔を偲ぶのは苔むした
石垣があるのみ、本丸の中央に城址碑があるのみだ。」
城入口016.JPG城入口019.JPG

城登り口013.JPG石垣009.JPG

城址碑015.JPG
城址碑017.JPG
                                  
城址碑

本丸跡007.JPG本丸石垣008.JPG
左は本丸跡、右は本丸石垣

千葉開府記念碑010.JPG望む市街地011.JPG
左は開府記念碑、右は城跡からみた市街地

望む市街地012.JPG
城跡から見た市街地



江戸城  1964(昭和39)年3月22~23日
「本当は1日で回るつもりだったが、体調が悪く2日で回った、内掘に沿って
回ったが、どの門にも警官がいて中をのぞくことすらできない、そのくせ
管理は全然出来ていない史蹟としてどうなっているのだろうか。」
城址碑037.JPG柳之井戸034.JPG
左は城址碑ですが、普通この碑は城の入口か本丸にあるものですが、何故か
この碑は半蔵門と三宅坂の間の三宅坂寄りの歩道の脇にあります、右は柳の
井戸これはこの碑の近くにあります。

大手門010.JPG平川濠付近の石垣019.JPG
左は大手門でが、当時は渡櫓門はありませんでした、また、中に入ることも
出来ません、右は平河濠の石垣です。

平川橋036.JPG平川橋014.JPG
平河橋て゛す。

平川門013.JPG乾門024.JPG
左は平河門です、右は乾門です、この門は西の丸の裏門を移築したもので、この門
がなければ西の丸紅葉山入口の紅葉山山下門もいまはないので、西の丸まで、行く
ことができるので、明治になって新しく作った門です。

竹橋門碑033.JPG
竹橋門付近017.JPG



                      
左は竹橋門跡碑で右は竹橋門跡付近


三の丸005.JPG
和田倉門碑゜001.JPG
             
左は三の丸、右は和田倉門碑

和田倉橋002.JPG和田倉橋008.JPG
和田倉橋です。

清水門碑030.JPG
清水門031.JPG




清水門碑と清水門ですが、これは史蹟と言うより資材置場かゴミ置場のようです。

田安門026.JPG
田安門027.JPG



                                  
当時ここに何かがあったようで、関係者以外は入れなかったようです。

北桔橋門019.JPG北桔橋門023.JPG
北桔橋門021.JPG
北桔橋門、この時ははいれませんでした。

半蔵門039.JPG
半蔵門ですが、ここも資材置場になっています、この門明治の初め取り壊され
ました、高麗門も渡櫓門も壊されたのですが、ここから西の丸の吹上御所が
近いので急遽造られた高麗門です。

Scan.jpg
この写真は江戸城の大手門の変革を1枚のパネルにしました。
左上は明治4年撮影のもので東京国立博物館蔵です。
右上は上記と同じ昭和39年3月23日撮影。
左下は東北大震災で江戸城もかなり被害がありました、平成23年10月12日撮影
右下は現在の大手門です、平成19年10月21日撮影。



川越城  1964(昭和39)年4月5日
       1964(昭和39)年11月15日
この城はこの年に2度も行っている1度目は単独行動だったが、2度目は協会の
見学会でいきました。
「行って驚いた、表玄関(武徳殿)は唯一の現存する建物なのに、高校の物置と
なっている、城址は公園となっていて、校舎、グランドなどになっている。
貴重な遺構、文化財として保存出来ないのか。
歌で有名な"天神様の細道じゃ"の三好神社が本丸跡にある。」
「この春行ったばかりだけれど、何か新しい発見を期待したが、話は川越合戦の
話が主で収穫なし、お話は市の教育委員会の方だっただけに余計に残念。
この後城址を一回りとてから喜多院に行く、三代将軍家光の誕生之間、春日局の
化粧之間など、住職の説明で回った。」
これを読んでわかったのですが、一人で行ったときは、喜多院には行かなかったというより
喜多院の存在すら知らなかったようです、また協会の見学会の時写真を撮ったと思ったの
ですが、この写真もみあたりません。それで今回の写真は一回目の時のものです。

Scan-1_edited-1.jpg
川越城のパンフですが、どちらの時ものかわかりません。

川越城レジュメ.jpg
見学会のレジュメです。

城址碑010.JPG
城址碑011.JPG

城址碑です、今はこの位置にありません。

本丸御殿玄関006.JPG玄関式台009.JPG
表玄関と式台です。

玄関横塀008.JPG塀007.JPG
表玄関横です、後ろにみえるのが、学校の校舎です。

土塁からみた本丸016.JPG三好野天神参道004.JPG
左は土塁の上から見た本丸で、右は三好神社参道です。

富士見櫓跡033.JPG
富士見櫓跡002.JPG

                     
    
                      
富士見櫓跡です。

本丸土塁020.JPG
本丸土塁です。



佐倉城  1964(昭和39)年9月27日
この城も協会の見学会に参加しましたが。
「今日の講師の先生方の豪華さにはおどろいた、会長の井上氏、鳥羽先生、
市の史蹟編纂の篠丸先生、市長であり最後の城主堀田氏これらの方々が
説明されたが、多くの先生方の説明ではかえって頭に残っていない。」
と言うわけで、城については、何もかかれていない。

佐倉レジュメ.jpg
そのときのレジュメです。

佐倉城1964.9.27[1].jpg
そのとき協会に撮っていただいた写真です。

説明板010.JPG
城址碑009.JPG
                                  
左説明板、右城址碑です。

本丸跡011.JPG本丸跡005.JPG
本丸跡です。

堀016.JPG空堀006.JPG
左は堀、右は空堀です。

土塁008.JPG土塁003.JPG
土塁です。

城入口018.JPG
城入り口です。



岩槻城  1965(昭和40)年3月25日
この城も協会の見学会でいきました。助かったのは跡碑がなくても説明で
場所の名前が判ったことです。

岩槻レジュメ.jpg
レジュメです。

城址碑005.JPG
本丸跡011.JPG


                                 
                                  
城址碑と本丸跡です。

城門説明板016.JPG大手門017.JPG
門説明板と大手門です。

大手門015.JPG本丸土塁013.JPG
大手門と本丸土塁です。

二の丸跡003.JPG武具櫓跡004.JPG
左二ノ丸跡、右武具櫓跡です。

新曲輪跡006.JPG新曲輪跡008.JPG
新曲輪跡です。

竹沢曲輪跡002.JPG空堀014.JPG
左竹沢曲輪跡、右は空堀です。

 最近歳のせいか、根気がなくなり、今回のこれを書くのに20日もかかりました。
この現象の一つは現在左眼が加齢黄班になってからほとんど視力がないので、
疲れてしまうのも原因の一つかもしれません。
家族や友人たちに、そろそろ辞めたらと言われています、でもギブアップはしたくない
とおもいますが、いまだにほとんど毎日のように仕事の夢をみます。
体が許すなら仕事はしたいとおもいますが、・・・。

次回は天守のお話ですが、模擬、観光用をいれますと、それに個人的に造られた
ものや、天守もどきをいれますと驚く数になります。

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