遺跡の立体復元 誤り ? 認め改修 ? [城・館・チャシ・グスク]
平城宮大極殿などの遺跡の立体的復元が全国で進められていま
す。発掘された柱穴や礎石などをそのままの形を見てもらってもイメ
ージすることが難しいと思います。それで復元したものを見てもらお
うとしていますが、はたしてそれが正しいかの判断が難しいのが、
記録のない時代の復元です。
そんな中、北海道檜山郡上の国町勝山にある「勝山館」跡で、
「過去にほとんど例がない」(文化庁記念物課)という、誤りを認
めた改修が行われることになった。
勝山館跡(国指定史跡)は北海道檜山郡上の国町勝山にある
山城です。山城といってもそれほと高くはなく夷王山からの尾根
つまりアイヌの最前線に築かれた館で初代松前藩主・武田信広
が、文明年間(1469~1486)に築いたといわれています。
この時代の北海道はアイヌとの衝突に備えてのもので、柵・濠
からなる砦みたいなものでした。郭と空堀・柵からなるもので、規
模からいえば、砦・出城といったものに近いものでした。
この勝山城、1985年(昭和60年)に杭を隙間なく並べた柵が復元
しました。これを隙間のある状態に改め、城内から敵が見えるよう
な構造に、今年の8月から修築に着手します。
柵については、現在復元している、二つの環濠遺跡の写真を
みてください。
大塚環濠遺跡(2008年12月7日撮影)
この大塚環濠遺跡は横浜市博物館の横にあります。
やはり隙間なく杭があります。
吉野ヶ里遺跡(2004年9月9日撮影)
これは、佐賀県にある遺跡です。
ここもどの場所を見ても杭の間の隙間がありません。
いままでは、柵は殆んどが写真のようでしたが、本当はどちらが
ただしいのだろうか。
上の国町の塚田学芸委員は「もともと発掘調査の成果や文献の
研究などから、杭の間を離して外から見える柵として復元すべきだ
った。何故現状のような復元が行われたのか不明だが、誤りと分か
った以上、改める」といっていた。
今後、修正するケースは増えてくるのか。弥生時代の吉野ヶ里
遺跡について、千田嘉博・奈良大教授は「全く防御性がなく、あり
えない構造」と批判する。
遺跡の発掘から復元まで担当した佐賀県教育委員会の七田参事
は、「目隠しの役割を重視して復元した。今のところ修正すべき点は
ない」と批判を一蹴するが、その一方で、復元の根拠を明示する配慮
は必要だとの考えをしめした。
松本・岡山大教授(考古学)も「過去への憧れの気持ちは、考古学の
重要な要素で、遺跡をアミューズメント化すること自体は悪いことでは
ない。しかし印象が強いほど、どこまでが推定なのかきちんと説明す
べきだ」と指摘する。
今回の場合は柵ですが、あちらこちらで復元のブームにのっての
天守など、先生方が云っておられるように、「復元の根拠を明示する
・・・」とか「どこまでが推定なのかきちんと説明すべき」といっておられ
る。
なんの資料もなく絵図どころか、あったかどうかすら ? なのに説明
もぼかしているお城が沢山あります。
云っちゃつたついでに、明日はその代表例として「富山城」を取り上
げてみます。
す。発掘された柱穴や礎石などをそのままの形を見てもらってもイメ
ージすることが難しいと思います。それで復元したものを見てもらお
うとしていますが、はたしてそれが正しいかの判断が難しいのが、
記録のない時代の復元です。
そんな中、北海道檜山郡上の国町勝山にある「勝山館」跡で、
「過去にほとんど例がない」(文化庁記念物課)という、誤りを認
めた改修が行われることになった。
勝山館跡(国指定史跡)は北海道檜山郡上の国町勝山にある
山城です。山城といってもそれほと高くはなく夷王山からの尾根
つまりアイヌの最前線に築かれた館で初代松前藩主・武田信広
が、文明年間(1469~1486)に築いたといわれています。
この時代の北海道はアイヌとの衝突に備えてのもので、柵・濠
からなる砦みたいなものでした。郭と空堀・柵からなるもので、規
模からいえば、砦・出城といったものに近いものでした。
この勝山城、1985年(昭和60年)に杭を隙間なく並べた柵が復元
しました。これを隙間のある状態に改め、城内から敵が見えるよう
な構造に、今年の8月から修築に着手します。
柵については、現在復元している、二つの環濠遺跡の写真を
みてください。
大塚環濠遺跡(2008年12月7日撮影)
この大塚環濠遺跡は横浜市博物館の横にあります。
やはり隙間なく杭があります。
吉野ヶ里遺跡(2004年9月9日撮影)
これは、佐賀県にある遺跡です。
ここもどの場所を見ても杭の間の隙間がありません。
いままでは、柵は殆んどが写真のようでしたが、本当はどちらが
ただしいのだろうか。
上の国町の塚田学芸委員は「もともと発掘調査の成果や文献の
研究などから、杭の間を離して外から見える柵として復元すべきだ
った。何故現状のような復元が行われたのか不明だが、誤りと分か
った以上、改める」といっていた。
今後、修正するケースは増えてくるのか。弥生時代の吉野ヶ里
遺跡について、千田嘉博・奈良大教授は「全く防御性がなく、あり
えない構造」と批判する。
遺跡の発掘から復元まで担当した佐賀県教育委員会の七田参事
は、「目隠しの役割を重視して復元した。今のところ修正すべき点は
ない」と批判を一蹴するが、その一方で、復元の根拠を明示する配慮
は必要だとの考えをしめした。
松本・岡山大教授(考古学)も「過去への憧れの気持ちは、考古学の
重要な要素で、遺跡をアミューズメント化すること自体は悪いことでは
ない。しかし印象が強いほど、どこまでが推定なのかきちんと説明す
べきだ」と指摘する。
今回の場合は柵ですが、あちらこちらで復元のブームにのっての
天守など、先生方が云っておられるように、「復元の根拠を明示する
・・・」とか「どこまでが推定なのかきちんと説明すべき」といっておられ
る。
なんの資料もなく絵図どころか、あったかどうかすら ? なのに説明
もぼかしているお城が沢山あります。
云っちゃつたついでに、明日はその代表例として「富山城」を取り上
げてみます。
2010-07-09 00:00
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コメント(4)
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お早うございます。
吉野ヶ里遺跡、行ったことがあります。だいぶ変わったのでしょうか。
by yakko (2010-07-09 06:10)
古代の城は資料が乏しいので正確な復元は難しいのでしょうね・・・
柵の形状については初めて知りました。
ドラえもんのタイムマシンで過去に連れて行ってもらえばわかるかも?
by 袋田の住職 (2010-07-09 08:43)
yakkoさん お早うございます。
6年前自分が行った時、ちょうど工事をしていましたが、それほど変わった
というほどは変わっていないとおもいます。
大きく変わっていれば、このブログで取り上げますが、話題性の小さい
ニュースの場合は、ボツにしますので、取り上げていないということは
それほど大きな変化はないとおもいます。
オープン当時は前の通りに200軒以上の店があったのに、いまは1軒
もありません。すごい寂れ方です。
何時も nice! とコメント有難うございます。
by 官兵衛 (2010-07-09 09:06)
袋田の住職さん お早うございます。
自分も現在復元しているのが柵だと思っていましたが、東北・北海道の
柵と、西のほうの柵とはちがうのではないでしょうか?。
なぜなら東北以北の柵はアイヌとの争いですが、吉野ヶ里などは
弥生時代から前のもの、当時の争いの相手はくまそ?、または卑弥呼?
と争う相手がクマやイノシシではなかったかと、戦う相手が違うと造りも
違ったのでは、だから全てがイコールと考えるのは危険だとおもいます。
自分も戦国時代にタイムスリップできたら、竹中半兵衛・黒田官兵衛
以上の参謀になれたかも、と思ったことがあります。
何時も nice! とコメント有難うございます。
by 官兵衛 (2010-07-09 09:33)