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高輪大木戸跡 [城・館・チャシ・グスク]

 明けましておめでとう御座います。
 旧年中は来て頂き大変有難う御座いました。
 今年も宜しくお願いします。

 前回、前々回と「品川台場」「御殿山下台場」と載せましたが、今回「高輪大木戸跡」にしたのは、
昨年暮れから「高輪ゲートウェイ駅」が巷を騒がせていますが、この駅は「高輪大木戸跡」の所に
出来る駅ですが、大変不評のようで、発表から5日で35、000の反対の署名が集まったそうです。
 本題とは離れますが、下記がダサイ駅名ランキングです。

1.とうきょうスカイツリー駅(東武伊勢崎線 旧業平駅)
2.流通センター駅(東京モノレール 羽田空港線)
3.テレコムセンター駅(東京臨海新交通 臨海線(ゆりかもめ))
4.
5.有明テニスの森駅(東京臨海新交通 臨海線)
 東京テレポート駅(東京臨海新交通  〃  )
6.モノレール浜松町駅(東京モノレール 羽田空港線)
7.品川シーサイド駅(東京臨海新交通 臨海線)
8.多摩センター駅(小田急線・京王線・多摩都市モノレール)
天王洲アイル駅(東京臨海新交通 臨海線)
たまプラザー駅(東急田園都市線)

 これは12/5~12/6に東京在住の18歳~50歳の男女100名のアンケート
です。

 何故こんなに不評だったのかは、応募では
1.高輪
2.芝浦
3.芝浜
でした、高輪ゲートウェイは130位でした。
 高輪と言う駅名は京浜急行がまだ京浜電気鉄道と云っていた時、京急は現在の品川駅を
高輪駅と云ってました。
 だから使いたくなかったのかなー?。


 江戸の大木戸は四谷、板橋とこの高輪の三箇所ですが、木戸は各町内の出入り口に
ありました。
 この内四谷と高輪には碑があるので、わかりますが、板橋については何も遺構、碑などがない
ので、はっきりとした場所が判りません。

 この高輪の大木戸も江戸初期はここではなく田町の近くの札の辻にありました。
下の地図はその付近のものです。
高輪ゲートウェイ.jpg
 今度できる高輪ゲートウェイ駅のすぐ左上に京急の泉岳寺駅があります。
 高輪大木戸跡は東海道(国道15号)に一部の石垣が遺構としてあります。この東海道を
江戸に向かって歩くと大きな三叉路に突き当たります、右へは東海道(国道15号)で日本橋
に行きます、左へ向かうと(桜田通り)桜田門に突き当たります。
この国道1号はちょっとわかりにくいのですが、桜田門から霞ヶ関を赤羽橋を通り三田2丁目
の交差点を右折するので、この三田2丁目から札の辻までは国道1号とは違いますが、この
札の辻に高札場があり、芝口門が建てられました、なので江戸初期はここが江戸の入口で
した。その後札の辻から高輪へ移され高輪大木戸として、東海道の江戸への入口となりました。
 この遺構ですが、下図をみてもらえば解りますが、歩道と車道の囲まれたところにあります。
ここの碑ですが、車道に近い所に建ってますが、正面は車道側を向いていますので碑の正面から
の撮影は出来ません、前々回載せた品川台場の台場公園となっている第三台場の碑も正面は
海ですが、ここは端から2~3Mあるので写真は撮れましたが方位的でしたら台場は東を向いて
いますが、この高輪大木戸は西を向いていますので、方位的な意味はないと思うのですが。
Scan.jpg
この後の写真で見てください。

高輪大木戸跡

所在地 東京都港区高輪2丁目19番地

遺構 石垣・土塁・跡碑・説明板

築造 宝永7(1710)年

 
 東海道の江戸の入口としてもうけられました。
 初め元和2(1616)年札の辻に芝口門が建てられ、高札場が置かれました、が江戸拡張で
この地高輪に大木戸、高札場が移されました。

 寛政4(1792)年に廃止され、明治元(1812)年に西側(車道側)は撤去されました。
 現在は海岸側 幅5.4メートル、長さ3メートルの石垣が残っています。

 東海道(国道15号)の京急「泉岳寺駅」の近くで国道の反対側には赤穂浪士で有名な
泉岳寺があります。また、JRの「高輪ゲートウェイ駅」ができます。

IMG_6673.JPG
IMG_6675.JPG
                                               
この碑左は左斜め後ろから撮ったもので、右の写真は体を車道のほうにして右側から
撮ったものです。

IMG_6672.JPG
説明板です。

DSCF4163.JPGIMG_6677.JPG

DSCF4168.JPGIMG_6676.JPG

DSCF4162.JPG

 今年も宜しくお願いします。

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御殿山下台場 [城・館・チャシ・グスク]

 この台場は最初は造る計画にはありませんでした。
 幕府は第四、第七台場も財政難で途中で中止し、第八から第十一の台場もやめました。
そのとき浮上したのが、目黒川の河口でした、ここは海上ではないので、築造するのに
海上に比べて資金の調達が楽でした。

 幕府は安政元(1864)年頃この地(現品川区東品川一丁目)に五角形の台場を築造しました。
154門の大砲を備えました。

 現在は面影はありませんが、品川区立台場小学校・台場幼稚園になっています。
 小学校の周辺の道の形に五角形の跡を見ることができます。


 下の地図は今までに踏査した場所の位置関係です。
全体図.jpg

 下は品川台場と御殿山下台場の位置図です。
品川台場図.jpg
見ての通り第四台場と御殿山下台場は近くにありますが、当時第四台場は海上
ですが、御殿山下台場は目黒川河口でした。

3.御殿山下台場.jpg
御殿山下台場の地図上の位置です。



DSCF4802.JPGDSCF4803.JPG
正面が小学校で門右側が碑と説明板です。

DSCF4818.JPGIMG_6667.JPG
碑と説明板です。

DSCF4805.JPGDSCF4816.JPG
IMG_6668.JPGIMG_6664.JPG
碑と説明板です。

DSCF4810.JPG
IMG_6661.JPG
                                               
                                                                  
この御殿山下台場跡に明治3(1870)年に建てられた日本で3番目の洋式灯台ですがこれは
レプリカです。
灯台の下の石はこの台場の築造に使われた石垣の石です。


今年はこれが最後の投稿です。
今年も来て頂き大変有難うございました。
早いものでこのブログを始めてから13年になります、ホームページのほうは33年を期に
今年の7月に閉めましたが、ブログは続けるつもりです、間隔があくかもしれませんが、
宜しくお願いします。

 良いお年をお迎え下さいませ。


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品川台場 [城・館・チャシ・グスク]

 体調を崩し、気が付いたら半年ぶりです。
 江戸城について踏査を始めてまだ「品川台場」「御殿山下台場」「浜御殿」「幸橋門跡」「芝口門跡」
「高輪大木戸跡」とまだ6ケ所しか終わってません。

 11月3日に合わせて、文化庁の「文化財保護月間ですが、これも昨年辞めたので、資料も集まらな
くなりました。

 台場はペリーの来航以来で、幕府、各藩で外国からの防衛のため、台場が築造されましたので、
海岸線を持つ藩は台場を造り、海からの脅威に対応しました。

 幕府は
1. 観音崎と富津に台場を建設する。
2. 品川の内海に台場を建設する。
としましたが、嘉永5(1852)年5月に西の丸の焼失、嘉永6(1853)6月に12代将軍家慶の死去と
財政難のため第一案は困難と、第二案のみを計画しました。
 建築案は品川の漁師町から東北の深川須崎(現在の江東区東陽町)にかけて連珠のように11
基、御殿山下の海浜に1基を造る案でした。
 その後も戊辰戦争、西南戦争でても造られました。

 幕府は嘉永6(1853)年伊豆韮山代官の江川英龍に命じ、品川台場に砲台を作らせました。
工事は急ピッチで進められおよそ8ケ月の工期で、ペリー再来航までに、第一~第三台場までを
完成しました。これを品川砲台(品海砲台)と呼ばれました。

 台場は正方形、五角形の洋式砲台で、その後第五~第六台場が完成しましたが、第四、第七
台場は途中で中止となりました、理由は財政難のためだったようです。
(七年後に完成したという説もあります、間違いやすいかもしれませんが、後記にもあるように
七つの台場と言う言葉があるので、七つだったのかもしれません。)

 やはり財政難だったためか、第八~第十一台場は築造されることはありませんでした。
 しかし御殿山下台場は築造されました。
 この御殿山下台場については、次回にします。


 幕末幕府が財政難だった様子が下の写真にみられます。
 この写真は当時の太政官の役人だった蜷川式胤が写真師横山松三郎絵師高橋由一の
協力を得て明治4(1871)年に作成した旧江戸城の記録の写真集です。
この「旧江戸城写真帳」は東京国立博物館蔵です。
 下記の写真はその写真ですが、一見廃屋にみえます、当時財政が苦しく御殿以外には
手がつけられなかったのでしょう。
下梅林 門、番所.jpg上梅林門と櫓門.jpg
多聞.jpg
これをみると歌の一節「菊が栄え 葵が枯れる」を思いたします。


下は現在の地図に台場の位置を示したものです。
 現在遺構が跡を示す何かがある所は赤丸で青丸は遺構が確認できない所です。
品川台場図.jpg
 第八~第十一台場は資料がないので、位置を示すことができません。

下はまだ海の科学館や品川埠頭が出来る前の、国土地理院の航空写真です。
品川台場航空写真.jpg
第四と第七代場は勝手に位置をかきましたが、その他の台場ははっきりと写っています。

資材の調達
木材
   木材に関しては下総国旧根戸村(現在の千葉県我孫子市と柏市の一部)と鑓水村(八王子市)
この村も御殿山と呼ばれている広大な御林があり、ここから運びだされたのは4924本でした。
たまたま10年くらい前「地域のこぼれ話」に出席したときの資料が下です。
八王子と台場.jpg
八王子と台場2.jpg

石材
  石材は伊豆・相模・駿河の3国に石材の調達を命じ、石材の切り出し、運搬にはおよそ1000人を
動員しました。



  埋め立て土は品川区にある御殿山、高輪、高輪泉岳寺の境内から搬出しましたが、これでは
足りず隅田川の浚渫土も使用しました。


第一台場
     品川埠頭の中央東側(品川区港南5-2)あたり、現在コンテナ置き場の南側あたり

台二台場
     第一と第三台場の直線上の中間あたりあった、航路の邪魔となるため撤去されました。

第三台場
     現在立ち入ることができる唯一の遺構です。
     現在のお台場海浜公園になっています、この公園には駐車場、レインボーブリッジの
     歩行者通路がり、第三台場には防波堤跡の道とつながっています。
     この後は写真で説明します。
第三台場入口IMG_6599.JPG第三台場入口'2)IMG_6608.JPG
左は公園から見た防波堤(前記航空写真参照)でその先が第三台場です。
右は第三台場への道(旧防波堤跡)

第三台場入口(3)IMG_6615.JPG第三台場外石垣IMG_6637.JPG
左第三台場入口です、当時は陸続きではないので、ありませんでした、右はその横の石垣です。

第三台場(4)IMG_6563.JPG第三台場(2)IMG_6545.JPG
左はレインボーブリッジから見た第三台場です、右は旧防波堤と台場です。

第三台場船着場IMG_6558.JPG砲台と船着場IMG_6560.JPG
船着場です資材はここから搬入しました、船着場右に台場碑がみえます。

船着場IMG6629.jpg
台場から見た船着場です。

石垣に使われていた石(2)IMG_6613.JPG石垣に使われてた石IMG_6612.JPG
柵の中の石は石垣の築造のため運ばれてきた石の残りでしょうか。

お台場公園案内板IMG_6595.JPGお台場海浜公園案内板IMG_6596.JPG                                                
                                
                                                 
                                                                  
                    




                                                 
                                                                  
                                                                                                                     
                                                                  
                                            
お台場海浜公園の案内板です。

第三台場説明板DSCF4743.JPG
台場公園案内板(5)IMG_6620.JPG台場公園案内板(4)IMG_6619.JPG
第三台場の説明板です。

陣屋跡DSCF4763.JPG陣屋跡IMG_6627.JPG
陣屋跡ですが、このコンクリートの礎石は大正時代になって作られたものです。

弾薬庫IMG6633.jpg石垣DSCF4749.JPG
左は弾薬庫跡で、右はその近くの石垣です。

砲台(レプリカ)IMG6629-1.jpg砲台(レプリカ) (2)IMG6629.jpg
砲台のレプリカです。

第三台場碑(5)IMG_6635.JPG
第三台場碑DSCF4784.JPG
第三台場碑(3)DSCF4786.JPG
                                                  
台場碑ですが、正面は海を向いています、誰に見せるための碑ですかねー。

格納施設跡のかまどかIMG_6622.JPG弾薬庫跡かDSCF4772.JPG
左は格納庫跡のかまどです、右は建物跡のようです、格納庫跡が。

建物の跡かDSCF4746.JPG
ここも何かの建物跡のようです、ここも格納庫跡か。

砲弾を格納施設跡IMG_6628.JPG石垣(5)IMG_6625.JPG
台場の中です砲台の内側はこのように土塁に囲まれていて、陣屋、格納庫などのほか
駐屯していた武士たちの生活の場です。

碑IMG_6610.JPG
防波堤(現在の台場への道)にある碑です。

第四台場
     天王洲の第一ホテル付近(品川区東品川2丁目)
     天王洲アイルノシーフォトスクエアはここを埋め立てて造成されました。
     いまでも水路に面した石垣は第四代場の石を積みなおしたものです。

第五台場
     品川埠頭の東京入国管理局の東北あたり(品川区港南5-11付近)ですが
     何の遺構もありません。

第六台場
     現存しレインボーブリッヂの橋脚近くにありますが、立ち入り禁止のため
     レインボーブリッヂの歩道橋からしかみることができません。
第六台場(6)DSCF4781.JPG第六台場(7)IMG_6542.JPG
左は第三台場から見た第六台場で右はレインボーブリッジから見た左第三正面第六台場です。

第六台場DSCF4689.JPG第六台場(10)IMG_6582.JPG
レインボーブリッジから見た第六台場ですが、正面(一番近い場所)からは金網が邪魔しています。

第六台場(9) IMG_6575.JPG第六台場(3)DSCF4696.JPG
レインボーブリッジから見た第六台場です。

第六台場(5)DSCF4702.JPG船着場 (2)IMG_6574.jpg
第六台場の船着場です。

鳥の島(2)IMG_6579.JPG鳥の島DSCF4693.JPG
鳥の島とありますが、前記航空写真でみえる防波堤です。これも昭和初期に築造
されたものです。

レインボーブリッジ歩行者道(2)DSCF4699.JPGレインボーブリッジ歩行者道DSCF4687.JPG
これはおまけでレインボーブリッジの歩行者専用道路で横は車道で上はゆりかもめです。

完成した台場は親藩大名が海防にあたりました。
第一台場   川越藩
台二台場   会津藩
第三台場   忍藩
です。
尚、第七代場はどこまでの進行か、また位置もはっきりとはしていません。
下のミュージアムで資料を見ることができます。


品川歴史館

船の科学館



どこまで続けられるかは?ですが、・・・。

次回は御殿山下台場です。

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50年前の安土城 [城・館・チャシ・グスク]

 この安土城については7年前の「城紀行」でちょっと載せましたが、前回の天守の中で、
昔は天守閣とは言わなかったと書きましたが、この安土城の跡碑では「天主閣」と書かれて
います。
 以前日本城郭史学会の代表の西ヶ谷氏がなにかの本で天守閣と言われるのは、
「江戸城」と「安土城」だけだと書かれているのを見たことがありましたが他に資料を見つける
ことが出来ないので、ここは深く考えないでください。

 それとこれも前回書きましたが、当時の文部省が手を加えて(天守の復元)ならぬとのこと、
ですが、では文化財だからと言うのであれば、もう少し保護に力をいれたらと思います。


では、当時の安土城についてですが、53年前ほとんど記憶がありませんので、前にもお話した
ように、訪城記(城紀行)から記憶を思いださせています。
下が城紀行のノートの1冊目です。
 1冊目は1963年の浜松城から1965年の岩槻城までの56城がかかれています。
Scan.jpg
下が書かれている内容です。
「1965(昭和40)年1月3日  晴  PM2:00~PM3:40

彦根をでたのが、12:30だから1時間半かかった、安土駅で降りて、お年寄に安土城
への道を聞いたら、あんたNHKのひとか、と言われた、城跡に行っても何もないよ、
ええ解ってます、一緒に行ってやるよ、こんな城だーれもきやしねえ、NHKの方は
時々来るのですか、、時々じゃねえたまーにだ、でもお城の研究会(日本城郭協会
・関西城郭研究会・東海古城研究会)の方たちがきているのでは、来てっかもしんねいが、
あまり見かけねえ、あんたみてぃに正月早々来る人なんかはじめてだ、正月に登る人は
あんた一人だ、ここに天守閣を建てる話があったが、文化財なんとかいうところが駄目
だと言って、そのままだ。
 登っている途中に困ったことに、この安土山で狩猟しているしている、人影は見えないが、
近くで音がきこえる。
 石垣も崩れかけているところがある、文化財と言うならもっと保護してもらいたい。
このお年寄がいなければ、もっと時間が掛かったかもしれない。また、色々と情報
も頂大変有難うございました。」
と書かれています。このノートがなければ、忘れてしまっていることです。また、城を廻る
ために、カメラも2台内1台は35mmでしたが、もう1台は1眼レフです、当時はズームが
あったかどうかは自分が購入したのは28mm、125mm、300mmと標準の52mmでした。
が全てズームではなく固定焦点のものでした、フイルターもFV..C4.W4などでした、当時は
自分で言うのはなんですが、結構マメでした、下のようにネガケースに撮った場所、レンズ
フィルターも書き込んでいたので、場所も写真と間違えずにすることができました。
Scan-1.jpg


 ところが、帰ってきてから写真を焼いたところが、大手門跡におばあさんが写っています、
あの時お年寄は正月早々来る人なんかはじめてだ。と云っておられたし、自分も前を
歩いている人はいなかったと思ったが、この写真は心霊写真ではありませんが、木の影
は写っているのに、おばあさんの影は写ってません、しかしこのお年寄の住所は聞いて
いなかったので確認出来ず、心に引っかかるものがあります。

では、写真です。


安土山(安土城址)遠景38-1.JPG
城址碑29-18.JPG

左は安土山(安土城)遠景、右は城址碑です

大手門跡29-1 -.JPG大手筋石垣29-11.JPG
左が問題の写真です、目の前におばあさんが登っています、シャッターを切る前
フェンダーには無かった景色です、しかし、この後下山するまで、姿を見ていません、
今と違って当時は合成技術なんかありませんので不思議です。
場所は左が大手門跡で右は大手筋石垣とありました。

大手通り石垣29-32.JPG豊臣秀吉邸跡28-28.JPG
左は大手通り石垣で右は豊臣秀吉邸跡とありますが、安土時代は豊臣でなくて羽柴
のはずですが、石碑には豊臣とありました。

前田利家邸跡28-31.JPG徳川家康邸跡28-32.JPG
左は前田利家邸跡、右は徳川家康邸跡です

織田信忠邸跡29-13.JPG織田信澄邸跡29-4.jpg
左は織田信忠帝跡、右は織田信澄邸跡です

森蘭丸邸跡29-12.JPG菅野九右衛門邸跡29-8.JPG
左は森蘭丸邸跡、右は菅野九右衛門邸跡です

二の丸口28-30.JPG二の丸跡碑29-3.JPG
左は二ノ丸口、右は二ノ丸跡碑です

黒金門跡28-29.JPG黒金門枡形石垣29-14.JPG
左黒金門跡、右は黒金門枡形石垣です。

黒金門枡形石垣28-33.JPG本丸口28-34.jpg
左は黒金門枡形石垣、右は本丸口です

本丸口石垣29-2.JPG本丸跡29-10.JPG
左は本丸口石垣ですが、かなり崩れています、右は本丸跡です

小田信長本廟28-35.jpg
小田信長廟所28-36.jpg
            
左は織田信長本廟、右はその碑です

小田信長墓所29-9.JPG天守閣跡29-16.JPG
左は織田信長墓所、右は天守の礎石です

天守台口石垣29-15.JPG天守台石垣29-6.JPG
左は天守台口石垣、右は天守台石垣です

天守閣跡石垣38-3.JPG天守台より望む旧弁天内湖29-5.JPG
左は石碑に「天主閣址」と書かれてあります、右は天守台より望む旧弁天内湖です

天守台より望む弁天内湖38-2.JPG八角平より望む旧弁天内湖38-7.JPG
左は天守台から望む弁天内湖、右は八角平より望む弁天内湖です

八角平より望む旧弁天内湖38-4.JPG台所跡石垣29-16.JPG
左は八角平より望む弁天内湖、右は台所跡石垣です

総見寺本堂跡29-7.JPG総見寺仁王門38-6.JPG
左は総見寺本堂跡、右は総見寺仁王門です

総見寺三重塔38-5.JPG
総見寺三重塔です

当時は城に関係ある書籍もすくなく、資料も少なく、国会図書館だのみでしたが、国会図書館は
日曜日が休みだったので、休暇をとっていかなければ調べることができなかったので、当時は
日本城郭協会、関西城郭研究会、東海古城研究会、西日本城郭研究会、歴史研究会(人物往来社)
など見学会に参加して情報を集めていました。
今は便利です、本も買わずも図書館にも行かず、ネットである程度が調べられるので、
一時城郭・歴史書だけで1000冊以上の蔵書がありましたが、それで十数人の
方に差し上げていましたが、不思議と差し上げた方々が離れていくので残りの蔵書は
図書館に寄贈することにしました。
 終活を始めています。いつまで続けられるか自信がありません。










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天守のお話 [城・館・チャシ・グスク]

 天守はお城を代表する象徴的な建造物です、ですから城=天守と思われがちですが、
城の中で天守のあった城は1%にも満たない数です、現在は町のシンボルとしての天守が
増えてきました。

天守の文字が文書に見られるようになったのは、「細川両家記」(1550天文12年)の中に
天守と言う文字が見られます、「遺老物語」では殿主、、「松屋筆記」には天主という文字
がみられます。
 しかし多くの書に安土城の天守が最初だと書かれてます、何故はっきりしないのかは
その古文書の裏づけとなる文書や発掘調査でも裏づけがとれていないので、否定も
肯定もされていません。
 このような覚える必要も調べる必要もないので、省きますというより、この時代の書の
解読が出来ないというのが本音です。


 天守を建てた目的・要素はなんなんだろうか。

1. 主殿の建築の中心に望楼があって、重層となった殿主建築の発達。

2. 眺望性と装飾を兼ねた楼閣建築の発達。

3.守城の時における戦闘上の必要性から構築された井楼櫓、矢倉の建築。

4. 城主の権力の象徴、相手への威嚇。

などがあります。秀吉の時代領主はこぞって天守を建てましたのですが、家康の時代に
なって、一国一城令のため支城の天守は取り壊されましたし、天守の再建はあまりない
ようでした。
 しかし明治維新によって破壊された天守、空襲、落雷、地震、火事などで消えた
天守がほとんどで、明治政府は明治6年に「廃城令」を布告しましたが、陸軍省の
管轄の城はその限りでないとのため、二条城、大坂城、津城、名古屋城、彦根城、
姫路城、岡山城、広島城、丸亀城、熊本城、首里城は陸軍省の管轄のため保存
されましたが、その他の城は売却・払い下げで廃城処分されました。
昭和の大東亜戦争のときもこれらの城は大本営になりました。今でもその名残が
広島城の大本営跡や新発田城の自衛隊の駐屯地です。
現在国宝の城は姫路城、松本城、犬山城、彦根城、松江城と二条城ですが、二条城
には天守がありません、国宝は二ノ丸御殿です。
このように天守がないのに、国宝とお思いでしょうが、戦前の国宝は25城ありました。
が、仙台城や、金沢城は天守がないのに国宝に指定されています、今回は天守なので、
国宝とは別にしています。

、昭和25年ころは江戸時代の1/10までになりました。

昭和30年代になり第一次お城ブームで復興、模擬を含めて90くらいの天守が建てられ
ました。

 天守ですが、戦前までは天守としか呼ばれていませんでしたが、いつの間にか
天守閣とよばれています。
 では閣とは二層(二重)以上の建物、お寺などに使われている、金閣寺、銀閣寺なと゛
とあります、なので天守も閣といえます、しかしお寺は2階だと閣ですが、塔の場合は
五重塔、三重等といいます。 江お城も昭和のころまでは、五層七階、四層四階と層で
呼ばれてましたが、今は塔と同じで五重七階、四重四階と変りました。
 お城の場合、外観の屋根の数で重を表しますが、内部は外から見えない隠し階
があります、これも戦略的に敵を欺くものです。

 天守は昔の書によりますと、天守、天主、殿守、殿主と書かれています。

天守の種類と言うと望楼型、層塔型などと形態ちがうものを言うのですが、
「現存天守、復元天守、復興天守、模擬天守、観光用天守に分類されます。

現存天守

 維新前から現存している天守で修理にも文化庁の許可が必要です
現在は12城あります。
現存天守.jpg
現存の天守はすべて国宝か国重要文化財です、一昨年松江城の天守も子ひくほうに
なりました。



復元天守

 復元と言うことは史実に基づき史実の通りに再現したものです、木造復元とか外観復元
とか言っている方がいらっしゃいますが、史実に忠実でないものは復元ではありません。
ただし現在の建築法で出来ない場合はやもうえませんが、注記が必要ではないでしょうか。

復元天守.jpg



外観復興

 位置、規模は史実とほぼ同等で、内外間が史実と異なる姿で再建されたものを言う。
指図、資料が完全でないものも或る。

復興天守.jpg




模擬天守

 位置、気穂、外観、天守の有無にかかわらず、資料もなく、推定で建てられた天守。
あいまいなところが多いので、模擬か観光かの区別が難しい天守もある。

模擬天守.jpg



観光用天守 (観光・天守風・怪しい天守・天守もどき・おかしな天守、等)

 城跡でもなく、観光目的のためにたてられた天守。
ここに載せていませんが、民間のお店、焼肉屋さん、すし屋さん、そば屋さん、
お菓子屋さん、など等全国で数百軒ありますが、面白いかもしれませんが、
天守と関係がないので、省きました。

観光天守1.jpg
観光天守2.jpg

 ここに載せた天守は151城です、今から5~60年前読売新聞にあまり観光目的で
城跡に建てないように書いたのですが、変りませんでした。しかし、現在廃墟となって
いる城、取り壊されてしまった天守、などかなりあります。
 昭和35年頃安土町が文部省(当時は文化庁はなかった)に天守を再建したいと
打診したところ、史蹟を破壊することはまかりならぬと却下されました、たまたま
城跡が国有地だったためですが、史蹟は国民の財産です、ですすが、民有地の
場合は仕方がないのかもしれません。

 現在、名古屋城や小田原城で天守の復元を計画されています。

また、文化庁からお叱りを受けた自治体があります、
長崎県のある町の町長さんお花見のため城跡を破壊し元の状態に戻すよう
言われました。

和歌山城では石垣の横での出店をやめるよう注意されました。

熊本城では地震前矢継ぎ早の再建に、文化庁から調査、計画はもっと
時間をかけてやるよう警告をうけました。

次回は当時文部省にストップをかけられてしまった。「安土城」の50年前の
お話です。




 
 
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一昔前のお城の姿 3 [城・館・チャシ・グスク]

 今回は天守について載せる予定でしたが、まだ編集ができていないので、今回は
前回の続きです。

当時の城についてほとんど記憶にないので、「城紀行」より思い出していますが、
読んでも記憶は蘇えってくれないのが、現状です。


武蔵松山城  1963(昭和38)年9月22日
そのときを思いだすことが出来ないので、「城紀行」より。
「今日は協会の見学会、参加者は100人くらいだろうか、講師は鳥羽先生、自然の要害
川をバックにした小山にあるが、慶長5年に廃城となっているので、遺構がなく、城址碑
があるだけの城だ。・・・。」
 
 この時青鳥城もいったのでレジュメは二つの城が書かれている。

青鳥・松山レジュメ.jpg
多分このレジュメも小和田先生方がガリ板で書かれたものでしょう。
城址碑・土塁021.JPG
城址碑019.JPG
                         
城址碑です。
城入口022.JPG
城入り口
何故か3枚の写真しかありません。


青鳥城  1963(昭和38)年9月22日
この城も見学会で武蔵松山城の後に訪れた城です。これも「城紀行」から
「・・・。現在民家、畑地となっている・・・。構築形式からみて南北朝時代のものだ
そうだ。・・・。」
説明板026.JPG空堀027.JPG
左は説明板、右は空堀

内堀025.JPG一文字塁029.JPG
左内掘、右一文字塁。

城内の墓030.JPG墓(城主)032.JPG
城内の城主の墓

 

小田原城  1963(昭和38)年10月6日
「城は公園となり、動物園、遊園地、グランド、市庁舎、小学校などがあり、復興
したばかりの、天守に上がり、石垣山をみたがよく判らない、天守内は大久保家の
資料、駕籠、小田原提灯などが展示されていた。」
残念だったのは、当時小田原古城については知らなかったので北条の城八幡山
古城に行けなかったことです。
下がそのときのパンフですが、16ページの小冊子です。今の1枚のパンプより
いいです。
Scan_edited-1.jpg

復興天守閣001.JPG
天守0.jpg

復興天守ですが、当時は天守の石垣のところまで、車が入れました。

堀・橋・櫓021.JPG隅櫓左は馬屋曲輪009.JPG
櫓は二ノ丸の隅櫓です、隅櫓の左は現在整備された馬屋曲輪で木々は
伐採されています。

本丸跡碑3.jpg本丸から二の丸へ012.JPG
左は本丸跡、右は二ノ丸から本丸へ行く門跡かも?。

常盤木門跡石垣004.JPG
常盤木門跡碑010.JPG
            
常磐木門跡の石垣です、現在は門が復元されています。

お茶壷端015.JPGお茶津補付近の堀014.JPG
お茶壷付近です。

塀018.JPG大名駕籠と小田原提灯005.JPG
塀ですが、現在あるかどうかは確認していません、と言うのは場所がどこただか
解らないので。右は天守1階にあった駕籠と小田原提灯です。

階段側木札は天守閣完成009.JPG小田原駅ビル2階食堂から見た小田原城022.JPG
左の階段横に天守閣完成とかかれたものが置かれていました、右は当時小田原駅の
駅ビルの二階は食堂だったので、そこから小田原城の天守がみえましたが、
現在はビルがありみえません。



石垣山一夜城  1963(昭和38)年10月6日
記憶がないので、「城紀行」からです。
「"草深き古城をそよぐ野分哉"
"虫の音に偲ぶ古城か苔の色"
小田原の帰りによったのだが、本丸跡以外は何の標識もないので、位置の確認
ができない、史蹟とは名ばかり、動物園や遊園地を少しでも史蹟の整備に回して
ほしい。・・・。」
石垣山入口の石垣004.JPG石垣山入口の石垣005.JPG

石垣山入口の石垣003.JPG
石垣山入り口2.JPG
              
写真右は石垣山入口ですが、今考えますとよく一人で行ったなーと言うかんじ。

石垣山入り口.JPG本丸跡.JPG
写真左は本丸跡碑ですが、草が生い茂り近けません。

石垣山碑.JPG
二ノ丸011.JPG
                                  
写真みぎは山頂にある碑、右は二ノ丸跡か。

石垣山より小田原方面001.JPG
小田原城をみましたが、見えませんでした。


この小田原城、石垣山一夜城のフィルム、デジタル化したCD、プリントした
写真は小田原城館長に差し上げました。
このように学術的目的に使われるかたには差し上げてます。



千葉城  1964(昭和39)年1月19日
「今は公園となって子供の遊び場となっている、本丸は小高い丘といったところに
あり、西に東京湾、東北に千葉市内で眺めも良い、昔を偲ぶのは苔むした
石垣があるのみ、本丸の中央に城址碑があるのみだ。」
城入口016.JPG城入口019.JPG

城登り口013.JPG石垣009.JPG

城址碑015.JPG
城址碑017.JPG
                                  
城址碑

本丸跡007.JPG本丸石垣008.JPG
左は本丸跡、右は本丸石垣

千葉開府記念碑010.JPG望む市街地011.JPG
左は開府記念碑、右は城跡からみた市街地

望む市街地012.JPG
城跡から見た市街地



江戸城  1964(昭和39)年3月22~23日
「本当は1日で回るつもりだったが、体調が悪く2日で回った、内掘に沿って
回ったが、どの門にも警官がいて中をのぞくことすらできない、そのくせ
管理は全然出来ていない史蹟としてどうなっているのだろうか。」
城址碑037.JPG柳之井戸034.JPG
左は城址碑ですが、普通この碑は城の入口か本丸にあるものですが、何故か
この碑は半蔵門と三宅坂の間の三宅坂寄りの歩道の脇にあります、右は柳の
井戸これはこの碑の近くにあります。

大手門010.JPG平川濠付近の石垣019.JPG
左は大手門でが、当時は渡櫓門はありませんでした、また、中に入ることも
出来ません、右は平河濠の石垣です。

平川橋036.JPG平川橋014.JPG
平河橋て゛す。

平川門013.JPG乾門024.JPG
左は平河門です、右は乾門です、この門は西の丸の裏門を移築したもので、この門
がなければ西の丸紅葉山入口の紅葉山山下門もいまはないので、西の丸まで、行く
ことができるので、明治になって新しく作った門です。

竹橋門碑033.JPG
竹橋門付近017.JPG



                      
左は竹橋門跡碑で右は竹橋門跡付近


三の丸005.JPG
和田倉門碑゜001.JPG
             
左は三の丸、右は和田倉門碑

和田倉橋002.JPG和田倉橋008.JPG
和田倉橋です。

清水門碑030.JPG
清水門031.JPG




清水門碑と清水門ですが、これは史蹟と言うより資材置場かゴミ置場のようです。

田安門026.JPG
田安門027.JPG



                                  
当時ここに何かがあったようで、関係者以外は入れなかったようです。

北桔橋門019.JPG北桔橋門023.JPG
北桔橋門021.JPG
北桔橋門、この時ははいれませんでした。

半蔵門039.JPG
半蔵門ですが、ここも資材置場になっています、この門明治の初め取り壊され
ました、高麗門も渡櫓門も壊されたのですが、ここから西の丸の吹上御所が
近いので急遽造られた高麗門です。

Scan.jpg
この写真は江戸城の大手門の変革を1枚のパネルにしました。
左上は明治4年撮影のもので東京国立博物館蔵です。
右上は上記と同じ昭和39年3月23日撮影。
左下は東北大震災で江戸城もかなり被害がありました、平成23年10月12日撮影
右下は現在の大手門です、平成19年10月21日撮影。



川越城  1964(昭和39)年4月5日
       1964(昭和39)年11月15日
この城はこの年に2度も行っている1度目は単独行動だったが、2度目は協会の
見学会でいきました。
「行って驚いた、表玄関(武徳殿)は唯一の現存する建物なのに、高校の物置と
なっている、城址は公園となっていて、校舎、グランドなどになっている。
貴重な遺構、文化財として保存出来ないのか。
歌で有名な"天神様の細道じゃ"の三好神社が本丸跡にある。」
「この春行ったばかりだけれど、何か新しい発見を期待したが、話は川越合戦の
話が主で収穫なし、お話は市の教育委員会の方だっただけに余計に残念。
この後城址を一回りとてから喜多院に行く、三代将軍家光の誕生之間、春日局の
化粧之間など、住職の説明で回った。」
これを読んでわかったのですが、一人で行ったときは、喜多院には行かなかったというより
喜多院の存在すら知らなかったようです、また協会の見学会の時写真を撮ったと思ったの
ですが、この写真もみあたりません。それで今回の写真は一回目の時のものです。

Scan-1_edited-1.jpg
川越城のパンフですが、どちらの時ものかわかりません。

川越城レジュメ.jpg
見学会のレジュメです。

城址碑010.JPG
城址碑011.JPG

城址碑です、今はこの位置にありません。

本丸御殿玄関006.JPG玄関式台009.JPG
表玄関と式台です。

玄関横塀008.JPG塀007.JPG
表玄関横です、後ろにみえるのが、学校の校舎です。

土塁からみた本丸016.JPG三好野天神参道004.JPG
左は土塁の上から見た本丸で、右は三好神社参道です。

富士見櫓跡033.JPG
富士見櫓跡002.JPG

                     
    
                      
富士見櫓跡です。

本丸土塁020.JPG
本丸土塁です。



佐倉城  1964(昭和39)年9月27日
この城も協会の見学会に参加しましたが。
「今日の講師の先生方の豪華さにはおどろいた、会長の井上氏、鳥羽先生、
市の史蹟編纂の篠丸先生、市長であり最後の城主堀田氏これらの方々が
説明されたが、多くの先生方の説明ではかえって頭に残っていない。」
と言うわけで、城については、何もかかれていない。

佐倉レジュメ.jpg
そのときのレジュメです。

佐倉城1964.9.27[1].jpg
そのとき協会に撮っていただいた写真です。

説明板010.JPG
城址碑009.JPG
                                  
左説明板、右城址碑です。

本丸跡011.JPG本丸跡005.JPG
本丸跡です。

堀016.JPG空堀006.JPG
左は堀、右は空堀です。

土塁008.JPG土塁003.JPG
土塁です。

城入口018.JPG
城入り口です。



岩槻城  1965(昭和40)年3月25日
この城も協会の見学会でいきました。助かったのは跡碑がなくても説明で
場所の名前が判ったことです。

岩槻レジュメ.jpg
レジュメです。

城址碑005.JPG
本丸跡011.JPG


                                 
                                  
城址碑と本丸跡です。

城門説明板016.JPG大手門017.JPG
門説明板と大手門です。

大手門015.JPG本丸土塁013.JPG
大手門と本丸土塁です。

二の丸跡003.JPG武具櫓跡004.JPG
左二ノ丸跡、右武具櫓跡です。

新曲輪跡006.JPG新曲輪跡008.JPG
新曲輪跡です。

竹沢曲輪跡002.JPG空堀014.JPG
左竹沢曲輪跡、右は空堀です。

 最近歳のせいか、根気がなくなり、今回のこれを書くのに20日もかかりました。
この現象の一つは現在左眼が加齢黄班になってからほとんど視力がないので、
疲れてしまうのも原因の一つかもしれません。
家族や友人たちに、そろそろ辞めたらと言われています、でもギブアップはしたくない
とおもいますが、いまだにほとんど毎日のように仕事の夢をみます。
体が許すなら仕事はしたいとおもいますが、・・・。

次回は天守のお話ですが、模擬、観光用をいれますと、それに個人的に造られた
ものや、天守もどきをいれますと驚く数になります。

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一昔前のお城の姿 2 [城・館・チャシ・グスク]

 前回は東北・北海道のお城でした。今回は関東の城ですが、写真が多いので、茨城、栃木、
群馬の城で、訪れた順に載せました。

 前回はお城の中の建物(民家)とか、城(史蹟)が民有地だったり等現在と違うものを
アップしましたが、今回は整備されていなかった、お城の姿をアップしました。


土浦城  1963(昭和38)年11月10日

 日本城郭協会の見学会に参加したときのものです。
土浦城集合.jpg
写真二列目中央に鳥羽正雄先生がおられます。
当時学生だった小和田哲男氏(現日本城郭協会理事長)、藤井尚夫氏(日本城郭協会
理事)、西ヶ谷恭弘氏(日本城郭史学会会長)、当時の学生部の方々がいらっしゃる
と思いますが、現在のお姿と変っていらっしゃるのでわかりません。
土浦城レジュメ.jpg
これが当時のレジュメ(B4)で裏に縄張り図が描かれてました、表の文は小和田氏で
裏の図は藤井氏が担当されていたみたいです。
でも当時はガリ版印刷なので大変だったろうと思われます。
当時の写真は全て白黒です。
城址碑003.JPG
太鼓櫓門013.JPG
                       



左は城址碑です、右は現存の太鼓櫓門です、この櫓門今は修築復元されている
そうです。

櫓009.JPG
櫓006.JPG
                                                  
櫓ですが、現在皆様が見られる櫓とちょっと違います、現在の櫓のほとんどが石垣の櫓台
の上にありますが、関東は石が少ないので木の足組みの上に建てられていますので、ちょ
うど土塁の上にあるようにみえます。

門005.JPG
門024.JPG
 
二ノ丸門ですが、これも現在修築復元されているそうです。

土塁・石垣・堀004.JPG土塁・石垣・堀018.JPG
土塁・石垣・堀です。

土塁・堀012.JPG堀010.JPG
左は土塁と堀で、右は土塁の上から見た堀です。



下野小山城 1964(昭和39)年4月29日
この城は中世の城なので、遺構もほとんどない中なにを根拠にこの城へ行ったかは
覚えていない。
それで、「城紀行」をみたところ「今でも空堀、土塁が残っている、・・・、この城も江戸時代
には廃城となっているが、一時は四つの支城を持つ城だった。・・・、城の要害利根川の
支流思川の対岸に渡り300mmの望遠でと三脚をたてていたら、人が集まってきた、ただ
望遠の試し撮りなのに、移動しょうとしてもぞろぞろついてくるのでそうそうにひきあげる。」
とあります、当時300mmの望遠はかなり高価(多分サラリーマンの月給の1.5ケ月分)ですか、
当時の望遠はズームでなくて単焦点でF 7 で絞りも今のレンズでいえば開放状態で手動での
設定でした。シャッタースピードも自分の勘と経験だったので、露出計を早く買いたいと思って
いました。

城入口001.JPG城入口002.JPG
城入り口と言うより本丸入口です。

説明板004.JPG本丸跡003.JPG
城説明板と本丸跡です。

土塁005.JPG
堀010.JPG
                                            

左は土塁で右は空堀です。

堀切007.JPG
堀切りです、左は二ノ丸右は本丸ですが、二ノ丸へは当時は入れませんでした。



宇都宮城 1964(昭和39)年4月29日
この城は上記小山城の後きました。
この城については、以前にも書きましたが、下記は「城紀行」よりの抜粋です。
「・・・。駅の構内に市の観光案内があったので、宇都宮城址(うつのみやじょうし)に行く
バス乗り場を聞いたところ?番線で宇都宮女子(うつのみやじょし)で降りたら目の前です
と言われ、さすが県庁所在地、城址が史蹟になっているのだ、と早合点し、車掌の「次は
宇都宮女子(うつのみやじょし)」で「降ります」と云って降りた目の前は宇都宮女子高等学
校の校門前ここで城址を小一時間さがしましたが、跡らしきとこはみあたらず、祝日の午後
歩いてる人もなく民家もなく、バス停で誰か来るのをまち、ようやく来られた方に「宇都宮城址
は」と「女子く目の前だ」ここでじょうし と じょし の聞き違いに気が付きました、ここから行け
ないこともないが、また間違えるかもしれないので、駅まで戻り、県庁に行くバスでといわれた。」
よく考えてみると、当時は城址など訪ねる人などいないので、当時東北線のダイヤは2時間
に1本ぐらいだったので、2城しか回れなかった。
ここらは当時の写真です、現在は櫓、塀などが復元されていますが、当時は堀以外
ありませんでした。

城址碑021.JPG説明板022.JPG
城址碑と説明板です。

城入口015.JPG本丸跡023.JPG
橋右に本丸橋と彫られています、右は本丸跡。

二の丸跡028.JPG土塁017.JPG
左は二ノ丸跡、右は二ノ丸土塁。

堀・土塁029.JPG堀025.JPG
土塁と堀です。



結城城 1964(昭和39)年5月3日
この城についても記憶はありませんので、「城紀行」より抜粋「結城駅より歩いて30分
いまは神社境内となっている城址、・・・、土木工事をしているが、城址は消えてしまう
運命か。ここも城址だったと思われる竹薮、空堀だけが、城の面影を遺している。」
とある

大手橋009.JPG本丸跡002.JPG
左は大手橋、右は本丸跡

二の丸跡017.JPG堀010.JPG
左二ノ丸跡(畑)、右空堀

土塁015.JPG堀008.JPG
左土塁、右空堀

土塁013.JPG
城内聡敏神社001.JPG

左土塁、右城内聡敏神社碑。



下館城 1964(昭和39)年5月3日
結城城の後この城に行きました、がこの城も記憶にないので「城紀行」より抜粋です。
「城址は市街地にあるため何も残っていない、本丸跡は水道局の浄水場となり、武家
屋敷跡は小学校となっている。が城主の菩提寺とお墓は立派でした。
本丸跡024.JPG堀023.JPG
左は本丸と右側に少し写っているのが、水道局右は堀

土塁021.JPG
藩主菩提寺018.JPG
                     
左は土塁、右は菩提寺山門前の碑。

藩主水谷家墓019.JPG
藩主水谷家の墓です。



笠間城 1964(昭和39)年5月3日
結城、下館と周り笠間城に着いたのが5時を回っていた、近くにいらしたお年よりに
笠間城をきいたら笠間城と言うラブホテルがあるらしく、そのご老人何を勘違いされ
たのか、1人でいっても泊めてもらえねえよ、といわれた。

本丸跡037.JPG二の丸跡032.JPG
左は本丸跡正面の美術館の建物今でもあるが、閉鎖されている、右は二ノ丸跡

本丸跡036.JPG大石邸説明板028.JPG
左は佐白公園(千人溜り跡)現在は駐車場となっています。大石邸の柏ですが、400年
も昔の樹木にはみえませんでした。

大石邸跡碑031.JPG
大石邸跡030.JPG
               
左は大石邸跡碑です、現在はもっと立派な碑でした。
右はその立て看板ですが、現在はありません。



水戸城 1965(昭和40)年5月23日
この城も日本城郭協会の見学会で行ったのだが、レジュメも集合写真もない、頼りになるのは
「城紀行」と写真だけ、城紀行のノートも2冊目です。「・・・、感じとしては中世の城郭、石はほと
んど使われてなく、門の枡形でさえ土塁だ本丸には水戸一高、二ノ丸には、三高、附属小学校
、私立二中があり、三の丸には弘道館、三の丸小学校、鹿島神社、県庁がある。武家屋敷など
は水戸駅をはじめ商店街になっている。・・・。」
と書かれているが城の遺構については何も書かれていない。

本丸表門跡008.JPG
本丸二の丸間の空堀006.JPG
                                                      
左は本丸表門跡、右は本丸二ノ丸間の空堀ですが、線路になっています。

二の丸表門跡014.JPG二の丸跡013.JPG
左二ノ丸表門跡、右二ノ丸跡です。

弘道館入口015.JPG弘道館碑016.JPG
弘道館です。

弘道館中019.JPG
弘道館の中002.JPG
                      
弘道館の中です。

弘道館玄関010.JPG弘道館玄関011.JPG
弘道館玄関です。

隅櫓跡010.JPG御前試合の庭020.JPG
左隅櫓跡、右は御前試合の庭です。

弘道館018.JPG弘道館の中008.JPG
左弘道館、右は弘道館の説明板です。

好文亭説明板013.JPG光圀誕生地碑003.JPG
左好文亭説明板、右は光圀誕生地碑です。

偕楽園庭園021.JPG
大日本史編纂の碑012.JPG
    
左偕楽園庭園、右は大日本史編纂の碑です。

 この写真で感じたことは、カラーと白黒の写真がありますが、この時も2台のオメラを
持っていったようです。でも当時のカラーはまだ経年変化が酷く劣化が酷いです。



前橋城 1970(昭和45)年6月28碑
この前橋と足す先は丁度下の倅がおなかにいて、しかも4月には大坂万博にも連れて
行かなかった娘(当時小4)が連れて行けというので連れていったので、城紀行には城
のことほとんど書かれてませんので、記憶もなくてわかりませんので写真だけを載せ
ます。

城址碑004.JPG
城址碑003.JPG
                                  
城址碑です。

大手門跡石垣005.JPG門009.JPG
左は大手門跡石垣、右は門です。

本丸跡006.JPG土塁上から本丸跡007.JPG
左は本丸跡、右は土塁から見た本丸です。



高崎城 1970(昭和45)年6月28日
前橋の後いったので、主役は娘だったので、後で後悔しました。

城址碑 021.JPG三の丸東門027.JPG
左は城址碑、右は三の丸東門です。

櫓030.JPG乾櫓029.JPG
櫓ですが、ここの櫓は前記土浦城の櫓のように柱の上でなく直接ですが
屋根が2段あるので二重櫓とみえますが、1重の屋根がなれれば、倉か
土蔵にもみえます、また、今にも崩れそうです。碑とのギャップがおおき
すぎます。


沼田城  1971(昭和46)年6月12日
この城の時も娘と一緒で、城廻りもこれで一時中断です、これからは子供が主と
なりますので、城紀行は孫が中学生になる頃まで少なくなりました。

城跡説明板021.JPG天守閣跡説明板020.JPG
左城説明板、右天守説明板です。

本丸跡030.JPG二の丸跡028.JPG
左本丸跡、右二ノ丸跡です。

空堀跡022.JPG
空堀跡です。


これで関東の城前半は終わりです、次回は関東の後半です。

月は昨年10月までに頂いていた情報ですが、これも今回で終わりです。


「東山魁夷展」
東山展.jpg
場所 東京富士美術館
期日 1月2日~3月4日


東京富士美術館





企画展
「ふるさとからのおくりもの」
ふるさとからのおくりもの1.jpg
ふるさとからのおくりもの2.jpg
場所 和歌山県立博物館
期日 1月27日~3月4日


和歌山県立博物館





企画展
「大田道灌と江戸」
大田道灌と江戸.jpg
場所 国立公文書館
期日 1月13日~3月10日


国立公文書館





企画展
「東京発掘」
東京発掘.jpg
場所 東京埋蔵文化財センター
期日 29年3月9日~20年3月11日


東京都埋蔵文化財センター





企画展
「蝦夷地域の戦国城郭」
蝦夷地域の戦国城郭.jpg
場所 いずみ郷土史料館
期日 12月16日~3月25日


いすみ郷土資料館





特別展
「城下町ヒストリー」
城下町ヒストリー.png
場所 高知県立紀伊増文化財センター
期日 10月14日~3月30日


高知県立埋蔵文化財センター





企画展
「岡本と東京緑地計画」
岡本と東京緑地計画.jpg
場所 世田谷区立岡本公園民家園
期日 7月1日~3月31日


岡本公園民家園




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犬公方・五代将軍 徳川綱吉 [城・館・チャシ・グスク]

 江戸城の史料を集めていると、色々と面白い事が集まります。小説にするような話、
お城のことより面白いので、脱線が続く日々です。

 今までに、15代将軍の死因・殿中の刃傷・3大仇討ち、など城に関係のないことを
書きました。

 今回は5代将軍綱吉についてです。
 何時の世も時の権力者の都合の悪いことは、公の史料には書かれてなく、○○家文書
などに、遠まわし的にかかれてあることがあります。でもそのほうが史実に近いかもしれ
ません。

 以前書いた江戸城の天守にしても、2代目天守の元和の天守についてもあいまいで
梅林坂近くの忠長邸が天守建造の邪魔だといって本丸から追い出していますが、元和
の江戸城図がないので、はっきりしませんし、慶長の天守(富士見多聞付近)と寛永の
天守(現在ある天守台の位置)の中間あたりにあったと、書かれてあるのもあります。

 ので史料から真実を見つけられないことのほうが、多いと思われます。

 何故綱吉を取り上げたかと言うと、問題が多かったのです。
1. 5代将軍になったいきさつ。
2. 跡継の件で水戸光圀との確執
3. 生類憐れみの令
4. 松の廊下刃傷事件
5. 生前での生母桂昌院への官位の授受
6. 武家諸法度の改正
7. 湯島聖堂での自らの講義

と話題の多かったお方だったので、深堀してしまいました。

 綱吉が将軍になったのは、運と老中堀田正俊のおかげでした。
 長兄家綱は11歳で将軍になりましたので、そして政務は重臣にまかせていました、
病弱のためか表にはほとんど出てきませんでした、家光には子どもは5男1女いましたが、
名前は3人だけしか出てきていませんので、多分早世だと思われます。
下の系図を見て下さい。
Scan.jpg

 長兄の家綱は4代将軍、次兄綱重は甲府藩、綱重は館林藩となりました
が家綱には跡継がいません、病弱な家綱より次兄綱重が死去しました。
 時の大老酒井忠清は宮将軍をと、111代天皇の子有栖川宮幸仁親王を将軍に迎え
ようとしていました、がこれに異を唱えたのは老中堀田正俊でした、正俊は病床の家綱に
弟の綱吉をと呼び出し、跡継に指名しました。

 将軍となった綱吉は酒井を解任し、堀田を大老にしました。
 外から見ていると兄の跡を弟が継いだのですから、自然のようにみえますが、重臣たちの
権力争いに巻き込まれた一人です。


 跡継問題は、6代将軍の時にも起きています。
 綱吉には1男1女の子がいましたが、徳松は5歳で死去しています、姫 鶴姫は紀州
徳川綱教に嫁ぎました、綱吉は綱教を6代将軍にしようとしましたが、これに異を唱えた
のが水戸光圀です、これで光圀との対立が強くなりました。
 ところが、鶴姫が死去したためこの話は消えて次兄綱重の子綱とよをするのが筋だ
と云ってた光圀の言うとおりになりました。
 綱とよは名を家宣と改め、江戸城にしの丸に入り、綱吉の死去によって6代目将軍に
なりました。

 綱吉の死亡には一般的にははしかによる窒息死と言われてますが、他にも諸説あり
ます。
 御奥廊下に歴代の将軍の位牌がある、御仏の間と宇治の間というのがあります。
下図参照
Scan-1_edited-1.jpg

 5代将軍綱吉の時代は、御台所信子(鷹司教平の娘)の御座の間でした、この御座の間
で信子に綱吉が殺されたと言う説もあります。
 多分このとき壁や襖に血が飛び散ったのではないでしょうか、襖、壁は全て宇治の茶摘
の絵に張替えられ、ここは宇治の間となり、開かずの間になり、御座の間は御仏の間の
奥になったそうです。
大奥図.jpg
大奥の図です、矢印の位置が宇治の間です。

 このほかにも怪談噺もありますが真実はわかりません。

 綱吉は中々の勉強家だったこともあって、光圀とは仲がよかったそうですが、徳松の死で
僧に尋ねたら生前の殺生によるものだと聞き、生類憐れみの令をだしました、今の時代で
したら動物保護で受け入れられたかもしれませんが、当時は不評でした、コレについて、
異を唱えていたのが、光圀です、光圀は水戸家の領内で犬狩りをし、その毛皮を綱吉に
送ったという逸話もあります。


 元禄14(1701)年正月、綱吉は晴れやかな気持ちで向かえました。
 それは目の上のこぶ光圀が12月12日に死去したからです、これで物事が自分の思い
通りに運べるようになったからです。

 このとき綱吉は生母桂昌院に従一位を贈ることでした、綱吉は吉良義央に、生前に
従一位は前例のないことを天皇家に話、3月11日には勅使が江戸に着き、予定通り
翌日から行事が始まり、14日は勅使に会う待ちに待った日でした。

 この時「松の廊下の刃傷事件」が起こってしまいました。
 綱吉はこのことを聞き、怒り心頭です、浅野に即日切腹を申し渡しました。が、赤穂浪士
の吉良邸討ち入りについては、忠臣だと褒めています。
 

 このほかにも、「武家諸法度」の第一条を改めてます。
旧 「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」    を
新 「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」
と、忠孝、礼儀を重んじろと、今で言う品格を持てといっています。

 また、自ら幕府学問所の湯島聖堂に行き、講義をしていたそうです。
この学問所は後の昌平坂学問所です。

また中野に「犬屋敷跡」があります。

 



これから先は前にも頂いているミュージアムの情報の2月限のものです。
昨年の10月からはお断りしていますので、それ以前に頂いたものだけです。


特別展
「立花宗茂と柳川の武士たち」
立花宗茂.jpg
場所 柳川古文書館
    立花家史料館
期日 12月9日~2月4日


立花家史料館





「合戦絵図の世界~語り継がれる戦国の「記憶」~」
合戦絵図の世界.jpg
場所 臼杵市歴史資料館
期日 12月6日~2月19日


臼杵市歴史資料館





「ボストン美術館の至宝」
ボストン美術館の至宝.jpg
場所 神戸市立博物館
期日 10月28日~2月4日


神戸市立博物館





「色ガラス芸術のパイオニア岩田藤七、久利」
色ガラス芸術.jpg
場所 新宿歴史博物館
期日 12月9日~2月25日


新宿歴史博物館




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5、60年前のお城の姿 1 [城・館・チャシ・グスク]

 明けましておめでとう御座います。
 旧年中は拙いブログに来て頂き大変有難う御座いました。
 今年も宜しくお願いします。

 
 城のニュースで始めたブログもだんだん違った方向へと行っているような気がします。

 今年は城の話にしますが、昨年の10月までに頂いたミュージアムの情報が今年の
4月頃までの分は載せていきます。

 日本城郭協会が7、8年前日本100名城を認定しさらに近年続100名城を追加して
お城ブームに火をつけました。

 江戸時代まであった城も明治になり廃藩置県で大名は貴族となり石高に応じて
爵位がきめられました。
 当時の庁舎もほとんどが城内にありましたので、今でも城内に役所やミュージアムが
あるところがかなりあります。

 その後町の発展に伴い城も破壊されていきました。
 
 戦時中は城が大本営になりましたが、大本営の場所は敵に悟られないために
めまぐるしくかわってました。
 今でも広島城には「大本営跡」が残っています。
IMG_2417.JPGIMG_2419.JPG
IMG_2418.JPG
上の写真は広島城に残ってるものです。

 明治になって城の建造物、天守、櫓、門などが破壊されてしまいました。

 昭和30年代になり町のシンボルか、観光用として多くの城跡に天守が造られて
きました。

 その当時のお城の姿のうち、今回は、北海道と東北の城で当時自分が訪れた城が
対象ですが、写真も撮れなかった城は残念ながら言葉ではいえないので省きます。




松前城 1964年8月3日
松前天守閣022.JPG松前天守閣023.JPG
天守の裏側です、当時大手門が閉じられていたのでこの位置の写真を撮るために
かなり遠回りしなければなりません、民家が数軒ありました。
松前搦手門・天守閣032.JPG松前太鼓櫓跡021.JPG
左は搦手門ですが、入館料はとらないので管理事務所だったような気がします、門左手
は民家です。
右は太鼓櫓跡ですが、民家がありました。
松前2-13-2011_020.JPG
松前角(隅)櫓跡020.JPG
           
左は御殿玄関ですが、松前小学校の玄関になっていました。
右は角(隅)櫓跡です、櫓のあった所には民家がありました。

 その後2001年8月2日に再び訪れましたが民家は近くになく、テーマパークになって
いました。






五稜郭 1964年8月3日
五稜郭郭内033.JPG
郭内ですが、当時公園となっていて、お店などがあり、タワーもありませんでした。
 その後2001年8月2日に訪れたときにはタワー(初代)ができてまして、タワー
から郭内がみえました。史蹟となり郭内の店はありませんでした。
今は箱館奉行所も復元され二代目タワーになっています。






八戸城 1964年8月4日
八戸城址碑009.JPG
八戸本丸跡005.JPG
                      
本丸跡が三八城(みやぎ)公園、普通の公園で城の遺構はここではみられません
なので、池、噴水、周りの民家で、碑がなければ城とは思えませんでした。
ここは再訪城していないので、現在は?です。







盛岡城 1964年8月4日
盛岡旭御門跡036.JPG
盛岡旭門口035.JPG
                     



                     
                      
本丸跡からちょっと外れるとこのような景色です、左は旭御門後は、民家になって
いて、、右はその門の右手です。
盛岡堀・土塁041.JPG
土塁の先の建物は県庁の職員宿舎が(城内には県庁などがある)

 ここも再訪城していないので、現在は?です。






九戸城 1964年8月4日
九戸城跡入口001.JPG
城入口ですが、城はこの路地を入った所です。
ここも再訪城していません。







仙台城 1964年8月7日
仙台馬場跡015.JPG
仙台二の丸跡003.JPG
            





左は馬場跡で右は二ノ丸後です、とくに二ノ丸後などは言われなければ、解り
ません。
 ここは2009年8月17日にきましたが、以前より酷く伊達政宗像しかなかったのに
逆に本丸にミュージアムや神社があり逆にガッカリしました。







一関城 1964年8月5日
一関本丸跡025.JPG
本丸跡ですが、右側に建物があります。
ここも来てませんので、現在はわかりません。







石巻城 1964年8月6日
石巻城入口001.JPG
石巻二の丸跡007.JPG
            





左は城入り口ですが、見たところ住宅地です、左は二ノ丸跡ですが、民家
等があります。
 2009年に仙台城、多賀城にきたのに寄りませんでした。




 


鍋倉城 1965年8月5日
鍋倉城入口009.JPG
鍋倉惣門跡012.JPG
                      
ここの記憶がないので、城紀行を開いてみたが、城については、「釜石線遠野駅前の
小山が城跡だが碑があるのみで何もない、本丸跡から市街地が一望できる。」としか
かかれていないが、面白いことが書かれてあった。
「盛岡を発ったのが5時を過ぎていたので、遠野に着いたのは9時を回っていた、
ひょっとして宿が取れないかと思い、乗った汽車の車掌に遠野に宿があるかと
尋ねたら、「遠野は市ですよ、宿屋くらいありますよ」と怒られてしまった」とある
がそれすら思いだせない。
左は城入り口ですが、路地のようです、右は惣門跡ですが、民家の中にあります。
鍋倉沢里屋敷跡022.JPG
澤里屋敷跡ですが、そばの民家と間違いそうです。
ここも再訪城していません。





秋田城 1964年8月1日
秋田大手橋013.JPG秋田本丸跡009.JPG
左は大手橋ですが、その先は右の写真の通りただの広場と言う感じ、そして本丸に
民家があります。
 ここもその後行ってません。





久保田城 1964年8月2日
久保田厩跡004.JPG
厩跡です、民家やら色々あります。
 この城については、3年くらい前、突然テレ朝からメールがきて、自分がブログに
載せた昔の窪田城の写真を使わせて欲しい、また久保田城についてお聞きしたい、
とあったので、電話、メールなどでお話し、城図、写真を撮った場所、写真をDVDに
コピーして送ったのですが、話とは大違いで、ふざけた番組に使われました、文句
をいいたくて電話してもいない、電話をくれといってもなしのつぶてでした。
ここも行ってませんが、何か建造物があったような写真を見た気がします。




寒河江城 1964年7月30日
寒河江本丸跡034.JPG寒河江二の丸跡010.JPG
中世の城跡なので何も遺構らしきものはありませんが、左は本丸跡で現在は
学校の校庭で右ま二ノ丸後ですすが、言われなければ解りません、ここの学校の
阿部校長、二ノ丸後にある教育委員会の方、そして郷土史家の嶋先生には
色々教えて頂きました。
寒河江城址碑035.JPG
校庭の前にある城址碑です。
ここはその後2年にわたり数回きています。





松峰城 1964年7月31日
松峰城門碑014.JPG
松峰城門碑015.JPG
                      
左右ともに門碑です、建物の横にあります。
松峰土塁020.JPG
土塁が建物に囲まれています。
ここもその後来ていません。





鶴岡城 1964年7月31日
鶴岡門033.JPG
城門が致道館の門になっていました。
ここもその後来ていません。





亀ヶ崎城 1964年7月31日
亀ヶ崎土塁028.JPG
亀ヶ崎藩主志村氏菩提樹碑025.JPG
                                            
左は土塁前の民家です、右は藩主の菩提樹碑ですが、民家の前にあります。
亀ヶ崎大手口033.JPG
大手口ですが、普通の町の通りと変りません。
ここもその後来ていません。





本荘城 1964年8月1日
本荘二の丸跡002.JPG本荘本丸登り口003.JPG
左の本丸跡に建物や残土置き場になっています。右は城入口の左側に
民家があります。
ここもその後来ていません。





新庄城 1964年7月31日
新庄城跡説明板019.JPG
本丸跡にある説明板ですが、その後ろは公衆電話です。
ここもその後来ていません。





会津若松城 1965年7月30日
会津干飯櫓跡より天守鉄御門42-5.jpg会津不明門跡43-1.jpg
左は復元中の鉄御門と天守ですが、門の手前に建物があります。右は不明門跡
ですもんの周りは民家です。
その後2014年8月27日に行きました整備されていました。





二本松城 1965年7月30日
二本松本丸口43-14.jpg二本松本丸跡43-17.jpg
左天守台左側上に建物があります、右天守台に住宅があります。
二本松天守台跡43-16.jpg
これも天守台跡ですが、建物があります。
ここも2014年8月26日に来ましたが建物は撤去されていました。





相馬中村城 1964年8月8日
相馬中村黒橋035.JPG相馬中村三の丸跡036.JPG
左黒橋の奥に建物があります。右二ノ丸跡にも建物があります。
ここもその後行ってません。





平城 1964年8月8日
平堀跡008.JPG
堀跡に何の建物だろう
この平は外注さんがあったので何回か行ってますが、このとき復興に賛否が
あって、反対派の人に追っかけられた怖い思いがあるので行きませんでした。





三春城 1965年7月31日
三春御殿跡44-2.jpg
御殿跡が校庭になっていました。
その後は行ってません。



小峰城 1964年8月7日
白河本丸跡003.JPG
本丸跡は広場となっていてブランコなどがあった。
2014年8月28日にいきましたが、東日本大震災の修復中で入れなかったのですが、
多分整備されていると思った。





ここまでが、東北・北海道の城址ですが、この今昔が執筆を言われた
きっかけです。
 今年は江戸城の踏査をしたいと思っています。

 今年も宜しくお願いします。



 
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展示会のお知らせ 32 [城・館・チャシ・グスク]

 今年も後僅かになりました。ブログを始めてから12年になります。今のソネットに変る前
はジャストネットでした、ジャストネットの時はブログはありませんでした。当時はメンバーも
少なくE-mailとホームページだけでしたが、メールもパソコン上なので送られてくるメールは
ジャストネットだけからただったので、ジャストネットがメールアドレスまで作ってくれました。
 下はジャストネットが作ってくれた(1995年頃)、Email名詞です。
ジャストネット名詞.jpg
当時はインターネットは電話回線を使ったモデムでした、当時PC(パーソナルコンビューター)
は日本では(1982年頃)NECとシャープだけでした、NECは6000タイプと8000タイプの
2機種でシャープはこれもK4EタイプとBM2の2機種でした、マイクロプロセッサーも80286
でした。OSもベーシックが主流でしたが、そしてこれもケ゜ームが占められていました。
何故なら、パソコンの使い方が判らないというのが本音でした。
その後マシン語がでてきましたが、ベーシックよりは早くなりましたが。
プログラムもcnfg.sysとオート.batの変更でプログラムの設定がかえられたので、自分的
には使いやすかったのですが。


 自分もこれからはコンビューターの時代だと思い倅に買ってやったところ、
毎日友達が数人来てたそうですが、最後には20人も連れて来るようになったので使用
は土日だけにしました。当時のPCは不揮発性のメモリーがなく、起動毎にOSを読み込
ませなくてはならないので、電源を入れっぱなしにしていたら、電気代が倍になったので
東京電力が心配して調べに来てくれました。

 その後80386、80486の機種がでてきて、東芝、松下、日立、富士通、エプソン、
日本IBMなどが参入してきました、NECも上位機種の9000をだしました。
 このときNECは80486のH98を発売しました、このH98はハイレゾ仕様で、漢字ボード
モデムボードなどが内臓されていのしたので、価格がべらぼうに高く自分が買った価格
は98万円でした、ちなみに80386のポピュラーの機種は5~7万円でした。
何故こんな高いものを買ったかと言うとCADで図面をかいたり、売り上げ在庫などの
管理表を作ってました。PC-CADはハイレゾ仕様のためモニターもハイレゾ仕様にしないと、
作動しません表示は0.01mmまで設定できました。今のAuto Cadは0.001まで設定
できます。

 当時はまだオフィスはありませんのでワードは一太郎、集計表はロータス123と
データーベースは桐をCADは今のオーとデスクはなく、PC-CAD(大塚商会+NEC)
を使ってました。
OSはMS-DOSのVer.2.2 3.0 3.3 5.0 6.0、となりその後は皆様ご存知のように
ウインドウズの3.0 3.1 95 98 2000 Mi XP Vist 7 8 10になりました。
インターネットはW3.0でモデム内臓でないと使えませんでしたが、H98で使って
ました。
 それが2002年にジャストネットがソネットになりました。
下はそのときのものです。
ジャストネットから
ジャストネットから移行.jpg
ソネットから
ソネットへ移行.jpg
です。
ホームページは1996年シャストネットに進められ作ったのが、海外の美しい風景
の写真でした。
当時HTML文などは知らずジャストネットのフォームを使いますので、自分でも簡単に
出来ましたし、HPがなんだか解らないままで作ってましたので、毎年更新するものだと
思っていましたので、
1996年  海外の風景写真
1997年  大河ドラマ「毛利元就」にちなんで、「毛利・吉川・小早川の城」
1998年  大河ドラマ「徳川慶喜」ですが、徳川・松平の城は全国にあり、また、
       移封、改易、断絶、没収などがあるので時間的に調査不可のため
       「日本の城」シリーズで「北海道の城」です。下記がその一部です。
北海道の城.jpg
1999年   「陸奥国1」で青森県の城。下がその一部です。
陸奥の城1.jpg
2000年   「陸奥の国2」で岩手県の城でしたが、ここでストップしてしまい、更新は
        していません。

 パソコン歴は0978年からですから39年になりますが、当時は40代でったので或る程度は
理解できましたが、今は全然駄目です、当時は倅に教えていたのに今は倅に教えて
もらう有様、(倅は大手コンビューター会社に勤めてます)

 今年は2、3、5、9、10、11、12月と7回も肺炎を患い咳、痰、熱に悩まされ、
(肺気腫の人はなりやすいそうです)6月にはカテーテルの検査と、自信が
ぐらついています。

 今年も拙いブログに来ていただき大変有難う御座いました。
 来年も頑張るつもりです、来年も宜しくお願いします。

 良い年をお迎え下さいませ。


 ここからは10月には断ってますが、それまでに頂いている情報をお知らせ
します。



「ゴッホ」
ゴッホ.jpg
場所 東京都美術館
期日 10月24日~1月8日


東京都美術館






企画展
「戦国の井伊谷」
戦国の井伊谷.jpg
場所 浜松市地域遺産センター
期日 2017年1月16日~2018年1月14日


浜松市地域遺産センター





企画展
「えどがわ大相撲展」
大相撲展.jpg
場所 しのざき文化プラザ
期日 9月9日~1月14日


しのざき文化プラザ





「エルミタージュ美術館」
エルミターシュ美術館.jpg
場所 兵庫県立美術館
期日 10月3日~1月14日


兵庫県立美術館





企画展
「南葵音楽文庫」
南葵音楽文庫.jpg
場所 和歌山県立博物館
期日 12月3日~1月21日


和歌山県立博物館





企画展
「地図を広げて」
地図を広げて.jpg
場所 植村冒険館
期日 9月15日~1月24日


植村冒険館





企画展
「北斎とジャポニスム」
北斎とジャポニスム.jpg
場所 国立西洋美術館
期日 10月21日~1月28日


国立西洋美術館





特別展
「河内鋳物の誇りⅣ」
河内鋳物師の誇り.jpg
場所 堺市立みはら歴史博物館
期日 11月5日~1月28日


堺市みはら歴史博物館





「〈白書院〉の水墨山水図」
場所 二条城収蔵館
期日 11月21日~1月28日


二条城





「セーヴル、創造の300年」
セーヴル創作300年.jpg
場所 サントリー美術館
期日 11月12日~1月28日


サントリー美術館



 
   
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