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芝口御門と城門 [城・館・チャシ・グスク]

 間隔が開きすぎて大変申し訳ありません、体調がすぐれないというより、歳なので
仕方がないのかもしれませんが、傘寿を過ぎてからは酷くなってきました。
 しかし今だに仕事の夢を毎日のようにみます、仕事を辞めてもう20年になろうと言う
のにです、体がついていけません、根気のなさ、記憶力の衰えなと精神的なものが、それ
と体力の衰えと、そろそろ限界かもしれません。

 なので、次の投稿は難しいかもしれません。

 前回三十六見附を書きましたので、今回は外郭の御門なのに三十六見附に入れなかった
見附「芝口御門」を載せます、この門は朝鮮からの外交使節団の来日に合わせ
て造営された門です。幕府の棟梁甲良家文書によれば、
「・・・六代将軍家宣公時代、宝永7(1710)年庚寅年に造営、御用掛棟梁甲良左衛門
享保9(1724)年正月晦御炎上其後御再建無之」とあります。
門は冠木門を入った右に渡櫓門とあります。
下は高野氏が描かれた芝口門です。
Scan.jpg

Scan-1.jpg
門跡には上図の絵図がありますが、ここに描かれてあるのは冠木門ですが、
屋根があります。
普通冠木門と言ったら屋根がありません、それで城門といったらどのような
門があるか。

石門
  虎口の左右を石で固めた形式の門です。
  現在会津若松城の天守台東側面に現存しています。
会津若松城の石門です。
IMG_4412.JPG20190415SS00004.png
DSCF2882.JPG
「静勝軒銘詩並序」に太田道灌が築造した江戸城は「凡そ三重なり、二十五の
石門ありて各々飛橋を掛く、懸崖千万屻なり」とありますがどのような門なのか
わかりません。

埋門(穴門)
     トンネル式の穴門で石塁の一部をくりぬいた形になっており外部からは
     その存在がわかりにくくなっています。
下が埋門です。
高島IMG_3887.JPG松代埋門9322.JPG
姫路IMG_5270.JPG
上左は高島城の駐車場からの入り口ですが、城古図には描かれてません。
上右は松代城ですが、これも古図にありれませんでした。
下は姫路城の山里曲輪の「る」の門です。

棟門・上土門(仕切門)  
      礎石の上に立てた二本柱に冠木を渡し、下部に蹴放しをわたして
      屋根組をしたもの。寺院の総門が同じ形式です。
二条南仕切門009.JPG二条天守台仕切門2431.JPG
大洲仕切門内側IMG_7683.JPG
上左は二条城の南仕切り門、右は同じく二条城の天守台仕切り門です。
下は大洲城の仕切門です。

四足門(四脚門)
      中世の城館の表門で二本の大柱の前後に四本の袖柱を立てて屋根は
      切妻か平唐破風造りになっています。
      中世の城館では、古河公方館、一乗谷朝倉氏居館にありました。
      近世の城館では大洲城の門にあります。
大洲四足門P8300162.JPG京都離宮四脚門.png
左は大洲城の四足門で、右は京都離宮の四脚門です。

ハ足門(八脚門)
      城館ではあまりみませんが、対馬の厳原城の客殿表門にあります。
      四脚門、八脚門は寺院の門に多く残ってますが、城では御殿などの
      表門に多くありました。
奈良法隆寺大門八脚門.png
奈良法隆寺の八脚門です。

高麗門
   二本の柱の上に切妻屋根をのせ主柱の後方に控柱を立て、主柱と控柱の上に
   棟行と直角に小屋根をのせたもので、門扉に潜り戸をつけたものが多い。
   枡形の一の門にこの高麗門が多いです。
   江戸城では大手門、外桜田門、田安門などほとんどの門に高麗門がありました、
   今はありませんが坂下門、半蔵門も枡形の一の門としてありました。
IMG_1142.JPGIMG_1409.JPG
左は田安門で右は大手門の高麗門です。

櫓門
  城門の両脇の石垣の上に多聞(渡櫓)を渡した二階門で、下方に入り口の
  門扉をもつもの、高麗門を一の門にこの門を二の門とした枡形を構成
  しています。
IMG_1144.JPGIMG_1411.JPG
左は田安渡櫓門、右は外桜田渡櫓門です。

薬医門(役居門)
   棟門の発達した門で門柱の内側に二本の控柱を立てて屋根は切妻造り
   です。
宇和島薬医門.JPG丸亀薬医門.JPG
大手門(現御香宮神社山門)33-16.jpg
上左は宇和島城の薬医門、右は丸亀城の薬医門です。
下は伏見桃山城の大手門(現御香宮神社門)です。

冠木門
   二本の柱の上部に冠木を組み込んだ質素な造りで屋根はありません。
   下がその冠木門です。
八王子DSCF1695.JPG新宮城冠木門.png
左は八王子城、右は新宮城の冠木門です。
 しかし芝口門の冠木門には屋根があります、それで城門を取り上げてみました。
冠木門は本来屋根をもたない門ですが、江戸城で冠木門があります、本丸口の
中雀門が冠木門です、多分この門を参考にしたかもしれません。下の写真が
明治初期の中進め門です。
7-5中雀門4.jpg
正面の門が高麗門ではなく冠木門です、この門の中は枡形で左は屋根だけ見えて
いるのが、書院出櫓で枡形正面は書院二重櫓と右横が捨間多聞です、右は
見えませんが書院渡櫓門でここをくぐると本丸表御殿の玄関です。

長屋門
   近世の武家屋敷の表門として、門の左右が長屋になって、門番の控え室
   や中間部屋が仕切られてあります。
下は長屋門です。
岩槻大手門015.JPG高崎三の丸東門027.JPG
左は岩槻城の大手門、右は高崎城三の丸東門です。

唐門
  唐破風を屋根の正面に配し腕木や肘木などに多く彫刻を施した門です。
二条唐門037.JPG二条唐門前広場019.JPG
二条城の唐門です。


 門の分類に用途や場所によってつけられた名、大手門、搦手門、鉄門など
ありますが、冠木門で屋根のある門が珍しいので門についてかきましたが、
自分が撮った写真をさがすのに時間がかかり過ぎました。探せばもっといい
写真があったとおもいますが・・・。


ここから本題の芝口御門です。
芝口門は六代将軍の時代に造られた門です、なので戦いのない時代です、防御の
門ではないのですが、絵図では家康時代の門と同じ形ですが、渡櫓からの右の櫓は
本当にあったのでしょうか、この門は朝鮮使節団の来日のために造られた門です。
下の絵図を見て下さい、汐留川上流の幸橋御門に枡形がありますが、この門は江戸
初期に造られた門です、その下流の土橋、難波橋には門がありませんが、木戸、番所
はあったかもしれません、その下の橋、門ができる前は新橋と呼ばれていましたが、
門が造られてから芝口橋と呼ばれてましたが、門が焼失してからは、新橋と呼ばれる
ようになりました。
 なので高野氏の絵図に違和感をかんじました。
 この門は14年間しかなかった門なので資料も少ないので、かなり錯綜しています。
 それで現在の御門跡が違う場所にあります、これついては跡地説明板にも書かれ
ています。
 ではその場所はれ゛の地図で見てください。
Scan-2.jpg
赤矢印が当時あった場所です、青矢印が現在の跡碑のある場所です。
薄いグリーンの東京高速道路の下が汐留川で、そこから上に伸びている
中央通りが江戸時代の三十間堀跡です。
別の地図でも赤丸矢印のところが御門跡ですが、同じようになって
います。しかし、この赤丸部のすぐ左上に金春屋敷跡というのがあのます。
Scan.jpg
下は江戸切り絵図です、この芝口橋の左上に金春屋敷があります。
これは江戸時代の絵図です、この絵図は芝口御門の焼失後に描かれた
ものなのです。
Scan-1.jpg
この門は焼失後は再建されていません。つまりそれほど城にとっては重要な門
ではなかったと思われます、この橋の上難波橋、その上の土橋に門がなかったのに
芝口門だけ立派な門を造ったのでしょうか、高野氏の門はどの門を真似てさ造った
のでしょうか。
 下の絵図を見てください、これはまだ門のあったときに描かれたものだと思われ
ます、少ない芝口御門の絵図です。櫓はありません。
Scan-2.jpg
Scan-3.jpg
上が芝口門ですが、高野氏の絵図と違っています、下の絵図を見てください
石垣の上に土塁があり、その上に塀があります。
「旧幕府引継書」「御触書寛保集成」などの資料には札ノ辻に芝口門があった
とか、芝口門の名があった場所が主でまた、港区立港郷土資料館、中央区立
京橋図書館の資料にも芝口御門についての門の規模、などについては書かれて
ませんが、また下図を見てください。
Scan-4.jpg
地図に門のあった場所、現在の碑のある場所については書かれてません。

あまり細かいことをかいたら、現在のものを信じていらっしゃる方の
夢を壊してしまいますので(以前唐津城は天守がなかったのにさもあった
ように描かれてある、とかいたら地元の方に嘘を書くなといわれました。)

下は現在の芝口御門跡です。
IMG_6731.JPGIMG_6726.JPG          




IMG_6728.JPGIMG_6727.JPG

IMG_6730.JPG
ここまでが、芝口御門の跡碑、説明板、絵図です。


DSCF4193.JPGDSCF4194.JPG
DSCF4195.JPGIMG_6717.JPG


IMG_6722.JPGIMG_6720.JPG
IMG_6719.JPG
IMG_6724.JPG
                                         
芝口門跡の道路の反対側にある三十間堀跡です、前の道路は堀跡です、なので芝口門は
実際には濠の先ですが門の跡碑はこの道路の後ろにあります。


まだまだ調査が不十分なので、続行しますが、文献、資料など御存じの方はお教え
くださいませ。

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